『不可視の太陽 第一部・・・scene010』
早朝の青い風が吹く。辺りは、まだ薄闇が支配している。
「おい、あの子、おかしくねえか」
「そうですね、こんな時間に・・・まさかランニングの途中ってわけじゃ、まだ4時半ですよ」
4トントラックの運転席から、見下ろしているのは、一見、作業者風の男たちだ。頭髪といえば、白いものが哀れにも数本並んでいるだけ・・。すでに60歳にはなろうという男は、多摩川の土手を指差しながら言う。
30歳くらいの男の視線の先には、6歳くらいの少年が見えた。多摩川の上流に向かって歩いている。
ここは東京都羽村市。八王子よりも、さらに北、東京都とはいえ、かなりの田舎である。ちなみに、人口は6万弱にすぎない。
少年が土手を歩いている。しかも、服は擦り切れている。そこから見える白い肌には、ところどころ擦り傷が確認できる。そろそろ6月になるとはいえ、まだ早朝の青い空気は、冷える。傷に沁みるでのはないか。男たちは、不安になった。
「警察に連絡しようか」
「しかし、おかしいというだけじゃ」
若い方は、あからさまにいやな顔をした。どこか後ろ暗いところがあるのだろう。警察というものを心底嫌っているようだ。
「オレ、ちょっと、言ってくるわ」
60歳になる男は、万上幸助という。車のドアを開けると、身軽なしぐさで地上に降り立った。
若い方は、荒木大典というが、万上のそんな様子をなんの感慨もなく眺めている。
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「ちょっと、ボク、どうしたのかな」
万上は、少年の背後から声をかけた。
「・・・・・・」
少年は、万上の語りかけを無視して、さらに茂みに入っていく。川の音はかなり近い。
「おい・・・・」
業を煮やした万上は、少年の細い二の腕を捕らえた。
「・・・・・」
少年は、たいした抵抗もせずに、万上を見上げた。
「ボク・・・?」
少年の顔は、何処か汚れていた。幼いながら、とても整った容姿をしているにもかかわらず、そのような印象をぬぐいきれないのだった。その目は、とても子供のそれにはみえない。その眼光のようすが、何か得体の知れないものを内包しているとしか思えなかった。だから、一瞬、少年に話しかけることを躊躇した。少年は、その間隙を縫って、言葉をかけてきた。
「おじいさんはだあれ」
「おじいさんか・・・おじいさんは万上って言うんだ・・・。ボクは誰だい?こんな時間にこんなところで何しているの?こんなに汚れちゃって、ママさん、怒るんじゃないかい?どこに住んでいるの」
万上は、疑問に思っていることをすべてまとめてぶつけてみた。
「ボクはだれ?」
少年は自問自答しているように押し黙ってしまった。
「とにかく、おじさんのところへ来い、ママのところへ連れてってやる」
万上は、少年を警察に連れて行こうと思って、少年のちぎれそうな手を握ったのである。
「ぃやあああ!!」
少年は、背骨をクエスチョンマークの形に歪めて騒ぎ出した。非常に怯えている。何かをひどく怖れている。少年のカラダは、万上の三分の一にすぎない。しかし、その抵抗力は、強烈だった。万上は、カラダの内側をえぐられる感触を味わったのだ。じっさいは、可愛らしい手や足が、めちゃくちゃに当たるだけなのである。それは無力で、まったく攻撃力を備えていない。
しかし、少年の剣幕が、万上に常識を越えた恐怖を与えた。
そのために思わず手を離してしまった。しかし、再度、そのときに走って来た荒木によって取り押さえられてしまった。荒木は、背後に警官を数人引き連れていた。
「け、警官?」
万上は、あたかも自分が疑われているかのような感覚に陥った。この様子は、だれが見てもキッドナッパーにしか見えないと思ったのである。しかし、警官の対応は思ったよりも柔らかだった。
「ご協力ありがとうございます。ボク、有田斉彬くんだよね」
警官は、少年を見下ろした。
背後の警官は、写真らしい書類と、少年とを交互に見比べている。
「間違いない・・・彼だ」
「ほんとうだ。・・ねえ、君は斉彬くんだよね、ママが待っているよ」
「・・・・!!」
少年はママという単語に反応したようだった。
「うん、ボクは有田斉彬だよ」
「じゃあ、行こうか」
「うん」
「では、ご協力ありがとうございます」
警官は去っていった。
「どういうことや」と万上。
「どうやら、身代金目的の誘拐事件らしいですよ。警察は検問を引いて捜していたみたいです」
荒木は答えた。
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それから数週間後・・・。
榊原英介は、パソコンの画面を眺めている。息子である勘九郎は、おもちゃで遊び疲れて寝てしまっている。
「こいつか・・・あのガキやりやがった」
英介が見ているのは、インターネットである。有田家が作ったらしいホームページである。
『2500万円を援助してください』と題されたホームページには、細かい説明がなされていた。このままでは事業がなりたたないこと、どうしても、奪取された身代金が必要であることが、細かに書かれていた。懇切丁寧に書かれた説明には、筆者の心遣いと懇願が隠されていた。
同時に、英介があきれたのは、斉彬の写真である。でかでかと貼られた斉彬の画像は、とても眉目秀麗で可愛かった。だから、こそ、こんなところに貼られているのは、大人のいやらしい意思が見え隠れてしていた。
―――――、通常ならば、英介もそう思ったであろう。しかし、彼は、斉彬の異常な聡明さを知っている。
「これをやったのはあのガキだ」
そう、英介に思わせるものがたしかにあったのだ。
「・・・・しかし」
英介は、隣の部屋で大の字のなって寝ている勘九郎を見て思った。
「オレとしたことがどうして・・・・あんなことを・・」
英介は、窓に映ったおのれの顔を見た。とても醜い。いままで、何人も人を殺しては、おのれの顔を映してみが、こんなにも醜くなかった。
「オレの中にはあいつの醜い血は一滴も流れていないというのに!!」
英介は、かつて感じたことがない罪悪感に泣いていた。心で涙が流れていた。
「いっしゅん、あいつが・・・・・・・・・に見えた・・・・・・だから・・・・・」
どんなに自分にいい訳しても、罪悪感は晴れなかった。英介は慟哭した。
英介は思った。奪った2500万円を裏世界を使って清浄化する。紙幣はすべて、ばんごうを記録しているだろう・・・・。鍵は海外にある。その線は、蛇の道は・・・・だ。その手の専門家なら山ほど知っている。
そうすれば、まるまる借金に使える。そうすれば彼が行っている事業は急転直下良い方向に行くだろう。これから、金を稼ぐ。もう失敗はしない。いままで蓄えた知識を結実さえる。そして、それらすべて愛する息子、勘九郎のために使う。
それが、最初からのプランだった。
しかし、それを斉彬にも言われたのだ。そのことが、産まれてはじめて芽吹いた罪悪感にひびいてたまらないのである。
英介は、テレビをつけた。
そこでは、斉彬をはじめとする有田家一家が、深々と頭を下げる映像が映っていた。ニュース番組のようだ。
どうやら、募金が2500万円にたっしたらしい。
英介は、顔を上げた斉彬を見つけた。貼り付いた笑顔。まさに、そんな表現にふさわしい。
そのとき、はじめて、英介は幼い少年に、自分が何をしたのか思い知らされた。
『不可視の太陽』第一部完。