『不可視の太陽 第二部 scene001』
「紗耶香、あなた、ほんとうは何をしたいの・・・・聞いたよ、お母さんとケンカしたんだってね」
「芳子姉ちゃん、うるさいな、いいでしょう?ちゃんと勉強して、それなりの成績取って居るんだから、それなりの大学を出て、それなりの就職をするわよ!わたしは、もういいの!人生で最高のモノを手に入れているんだから・・・あとの人生なんて、ただの惰性よ!」
家路を急ぐ有田紗耶香。彼女は、頭の中で交わされた姉との会話を思い起こしていた。
「何?Silent Voice?それはしょせん、他人のことでしょう?あなたは何をしたいの?」
「じゃあ、聞くけど、ドストエフスキーの研究に生涯をかけた大学教授がいるわ。その人の人生は無意味だったの、その人にとって、ドストエフスキーは他人じゃないの!?」
「それとは意味がちがうでしょう!?」
「何も違わない!私は・・・・!!」
有田紗耶香は、17歳、高校二年生である。1990年のカレンダーも残り少ない。来年の受験を控えて、勉強にいそしんでいる年頃である。じじつ、普通のおない年の少女たちよりもはるかに高いところにいた。彼女の高校は関東でも、有名な進学校であるし、入学以来、成績は五本の指から外れたことはなかった。では、家族たちは、何に不満だったのか。
「私は?だったら、あなたもドストエフスキーの研究に名を残しなさい」
「何言っているのよ!芳子姉!」
記憶とともに、闇夜に向かって、その台詞を吐き出した。
「そんな心配をする暇があったら、オナカの子の心配でもしたら!?」
病室で、大きくなったお腹をもてあましている姉。さすがに、そんな姉に、そのような言葉を投げつけることはできなかった。
「斉彬か・・・きっと、弟が産まれたら、久光って付けるのよ・・そして、ずっと苦しむんだわ、わたしは、久光ちゃんの味方でいてあげる」
吐息が白い。空からは、白いものがちらついている。それだけ寒いのだ。あまりに寒いので、近所の公園を通ることにした。近道なのだ。しかし、すでに、7時近い。都内にしては広い公園は、夜ともなれば、かなり暗い。だから、ウルサイ家族たちは、公園に入ること戒めるのだった。
一方、芳子は、病室から外を眺めていた。さきほどまで、ちらついていた程度の雪は、ぼた餅のように落ちてくる。病院を照らす明かりによって、かすかに見ることができる。
「紗耶香は、ちゃんと家についたのかしら」
1990年という当時においては、まだ、携帯電話という便利な機械は、まだほんの産声を上げたばかりだった。ほとんど市井には、普及していない。だから、紗耶香に即連絡というわけにはいかなかった。
「さいきん、あの子の友達を見ることもすくなくなった・・・」
芳子は嘆息した。紗耶香の、Silent Voiceに対する入れ込みようは普通ではなくなっていた。以前は、あの子の周りには、いつでも友達がいた。そして、いつもにこやかに笑っているあの子を観るのが、姉としても楽しい日々だったのだ。
それが、Silent Voiceを知ってから、まるで人格が入れ変わったかのようになってしまった。食事をするときの目もうつろで、そこに、かつては見ることができた彼女の魂を発見することはできなくなった。
たしかに、学校の成績も変わらず、きょうびの女子高生にあるように、夜中まで街をうろつくようなこともなかった。だから、ストレートに妹を責めるわけにはいかなかったのである。しかし、何処か違う。ほんとうの紗耶香ではないのだ。大人になった?なりつつある?それとも違う。
何処か、精気がないというか、空気みたいな感じになったと言えば正確かもしれない。
しかし、話題が、Silent Voiceのことになると、目がらんらんと輝く。とどのつまりは、えんえんとあいてかまわず、しゃべり続けるのだ。そのせいで、芳子は、ロックはおろか、音楽にはそれほど興味がないにもかかわらず、ロックバンドについて、かなり精通するようになってしまった。
それには、高い知能に生まれついた自分の運命を恨んだ。勉強と同じで、いちど耳に入ったことはつぶさに記憶してしまうのだ。それは、かつての受験エリートの悲しい性だった。それはともかく、芳子は、常に、妹にたいしては何かをしなくてはならないという強迫観念を感じるようになったのだ。
---――――――ぼた餅のような雪は、さらに勢力を補強して、首都圏を直撃している。
そうだ、斉彬が生まれたら、あの子も、元のあの子に戻ってくれるかもしれない。雪の青白さに、何を触発されたのかわからないが、突然、芳子の脳裏に囁くものがあった。
芳子は、かつて、産まれたばかりの紗耶香を母親から抱き取ったときの感覚を思い出さずにはいられなかった。そのとき、芳子は、たしかに生命の重さと暖かさを身のうちに感じたのだ。それを、紗耶香も感じ取ってくれたら・・・・・。
芳子は、ベッドに戻ることにした。お腹の子に障る・・・。
一方、紗耶香はまだ広い公園を横断していた。しかし、彼女の寒気によどむ目は、階段を見つけていた。公園の出口へと向かう階段である。紗耶香は、滑らないようにして、細心の注意を払って、あがる。家まで、もうすこしだ。これを上がりきれば、家まであと五分だ。そうすれば、温かい家と温かいご飯が用意しているにちがいない。
紗耶香は、やっとのことで凍り付いた階段を上がった。そこには、はたして・・・。
「すいません武蔵境町へはどうやっていったらいいのでしょうか」
紗耶香が振り返ると、そこには堅太りの男性がいた。丸メガネをかけている。年齢は30歳を超えたぐらいだろうか・・・。ここまで書くと、一見、さえないようだが、紗耶香の印象は違った。表情は穏和だったが、その眼力は通常の人間ではなかった。そして、体型にもかかわらず、ぴしっとしたスーツ姿は、何処かエリートを感じさせる何かがあったからだ。堅太りの体型は、紗耶香には、恰幅がいいと受け取られたのである。たで食う虫も好きずきとはまさにこのことである。
「それは、こちらです。わたしもその方向なので・・・・」
紗耶香は、男を誘って、先導しようとした。
この男こそ、彼女の甥が忘れられない邂逅を果たす、榊原英介その人である。
今日は、新品のスーツに、靴、帽子まで買いそろえてこの計画を実行に移した。付け加えると、一台のワンボックスカーまで用意したのである。こちらは盗品であるが・・・。その車は、紗耶香の家の近くに止めてある。
これから、英介が何をしようとしているのか?
それは、少女にとって、寝耳に水のことである。
「あれ?だれかお客様でも来ていらしてるのかしら」
紗耶香は、家の前に止めてあるワンボックスカーを見つけて言った。そのとき、少女の背中に危険が迫っていた。
「きゃ」
「静かにしろ」
紗耶香は、ばんと言う音を聞いた。それは、車のドアが開く音だった。そして、身体が、重力に逆らって浮いた。
気が付くと、暗い閉所におのれがいることを報された。
ぶーん。エンジンの始動音である。それは、紗耶香にとってみれば、地獄への汽笛に等しかった。
紗耶香の視界から、温かい家と家族は、あっという間にかき消されてしまった。代わりに与えられたのは冷たい閉所と、榊原英介だった。
「姉ちゃん、音楽でも聴くか?」
「・・・・」
「ふふ、恐怖で、何も言えないか」
そのはずである。口には猿轡を噛まされ、後ろ手に縛られて放り込まれたのである。
「姉ちゃんがロックを好きかわからんが・・まあ、長い旅になろうから・・・」
英介は、CDを箱から取り出すと、セットした。
紗耶香は、恐怖のあまり音楽どころではなかった。しかし、そのCDから流れてきた空気の波を、紗耶香の聴覚器官が受け取ったとき、彼女は慟哭した。
それは、彼女がかつて知った曲だったからである。
“Silent Voice”
人間、好きな音楽は、音のひとつ、ひとつが光って視えるものである。紗耶香は、こんな絶望的な状況にあっても、目の前に光る音を発見できた。
「へへへ、天国へ招待するぜ」
男の声が頭上で響いた。ずいぶん粗野な言い方だが、紗耶香には別に聞こえた。彼女には、英介がわざと粗野に見せているように見えたのである。
---―――車は、紗耶香の知らない山の中へと進んでいった。
「ひい!いやあああああ」
気が付くと、紗耶香は自分が泣き叫んでいるのに、気づいた。自分の身体を、だれかがまさぐっている。それはあの男に違いなかった。紗耶香は、思わず叫んだというよりも、この状況下に、おかれた少女ならば、このようにしなくてはならないと思ったのである。だから叫んだ。想像を絶する状況のなかで、紗耶香は、神経が沈着化していく。それは冷静になるというよりは、神経が凍り付いていくと言ったほうが正しい。何処か、正しい判断ができないように麻痺している。
「や、やめてください・・・・!!!」猿轡は、はがされていた。ここにおいては、大声を出しても無意味だということだろう。沙耶香はあせった。
「いやああああ!!」
さらに叫ぶ紗耶香。しかし、それは演技に等しかったのかもしれない。そんなことを彼女にさせたのは、男の手の冷たさだった。
(なんていう冷たい手なんだろう?)それは氷や外の雪よりもはるかに冷たかった。
――――彼女の胎内に侵入してくる。それはとても冷たい。心?紗耶香は、涙が止まらなくなった。
そして、自然に口からついで出てきたのは・・・。
Bullet bullet bullet!
Cold bullet…….
彼女は そのとき、衝撃や痛みよりも冷たさを感じた
冷たい 冷たい 冷たい
苦痛、恥辱、恐怖よりも はるかに冷たさを感じた
冷たい 冷たい 冷たい
はじめて出会った相手 それも、おのれを陵辱している相手に・・・
怒りはみじんも感じなかった
ただ 感じたのは その冷たさ
「なんだ、この女、犯されながら歌っていやがる」
英介は、驚いた。それは、おせじにも上手な歌唱とは言い難かったが、Silent Voiceへの素直な愛を感じた。英介も、Silent Voiceにはかなりの傾倒を見せていた。仕事への行き帰りにおいて、唯一のなぐさめがSilent Voiceだった。暗い車内に木霊するSilent Voiceの音楽は、少なからず、英介の気持をほぐしてくれた、人から愛されることを知らない。あるいは、愛されていることを理解することができない英介は、他人を自覚して愛することができなくなっていた。行き場を失った愛は、音楽やモノの方向へと向かった。モノと言えば、彼は、高級車の購入に惜しげもなく資金を使った。
いま、犯罪が行われている車は、言うまでもなく犯罪用の盗品である。
----―――――彼女は、カラダ全体で、男を絞り上げた それは ―――
男が受けたことのない 愛
あるいは 愛を愛であると 受け取れない
奇しくも、カーステレオからは同じ歌が流れていた。こちらは、当然、Silent Voiceが演奏している『冷たい弾丸』であるが、紗耶香の歌唱と、完全にシンクロしているのだった。それは、紗耶香が意図して、CDに合わせたわけではなかった。それぞれが独立して、同時進行で、歌唱は行われているのである。
歌詞は、ひとつの物語になっている。孤独で、産まれてから一度も愛されたことのない男。彼と彼に犯される女性が主人公である。
男は、街で見かけた女を犯す。女は、はじめは、当然、拒否するが男のあまりの冷たさに母性本能をくすぐられ、奇妙な愛へと昇華していく・・・と言った物語である。
激しいドラムとエレキが交差する曲調は、行為を暗喩的に表現している。そして、アコーディオンとヴァイオリンが鳴り響くアコースティックな部分は、男がその成長過程で得られなかった愛への渇きを意味している。異なる曲調を統一させ、ひとつの荘厳な幻想交響曲へと仕上げているのは、香なるSilent Voiceのヴォーカルである。音だけは、彼の美貌は窺い知れない。しかし、ふたりの脳裏には、香の美貌が大写しになっていた。それは、ふたりとも映像や実体験などで、Silent Voiceを経験したことである。ちなみに、実体験とは、このばあい、コンサートのことである。
英介は、ロックのように絶頂を迎えた。しばらく、放心状態だったが、おもむろに両腕を、雑巾絞りの要領で合わせた。この場合、絞るのは、雑巾ではなくて沙耶香の細い首だった。
「うぐぐぐぐ・・・」
消え行く意識の中で、少女は、『冷たい弾丸』の歌詞のラストを思い浮かべていた。
あたしは あんたを知らない
名前も知らなければ 年齢も知らない
どんな父母から生まれてどんな友達と育ったかも知らない
ただ 知っているのは あんたの冷たさだけ
そして その冷たさが あんたに由来しないことだけ
俗に言う「手の冷たいひとはこころが温かい」って
そんなこと 本気で信じていたわけじゃないけど
まるで、ひとつの映画をたった五分に集約しような曲。場所によって、激しくその性格を異にする曲とともに、『冷たい弾丸』は終わる。
「うわ・・・」
有田斉彬は、大粒の寝汗とともにその日の朝を迎えた。2009年4月12日である。
「また、あの夢・・・・」
斉彬はめまいに苦しみながら、立ち上がると手鏡を見た。汗が流れてくる。真夏でもないのに、留め止めなく流れてくる。
「え?」
斉彬はふいに口から出てきたことばに驚いた。
「ナリアキラ・・・・」
鏡の中の人物は、口を動かしている
「イツマデモ ココニイテ ゴメンナサイ・・・ドウシテモ・・ヌケラレナイノ」
「え!?あああ」
斉彬は、両手で顔を覆い尽くすと、床に倒れこんだ。
「私はここにいちゃいけない・・・ここにいちゃいけないんだ・・・はやく出ないと・・」
「どうして・・・オレはこんなことを言っているんだ!?」
斉彬は、再び、立ち上がるとシャワー室に直行した。冷たい水を頭から浴びる。
小さい頃から、何度も見た夢。そして、そのたびにわけのわからない罪悪感を感じてきた。じぶんは本来、ここにはいてはいけないから、出ていかなければならない・・・・という感情。
「いったい・・・!?」
斉彬は、水を止めると、肩で息をした。長い髪から多量の水がしたたる。シャワー室に備え付けの鏡を見る。そこには、誰かがいた。
「オマエハ誰ダ!?」
斉彬は、帰ってくるはずのない疑問をぶつけていた。