『不可視の太陽 第一部・・・scene009

 

 

 

 

 

  

   ここは、八王子は多摩の山中。1996年5月29日のことである。新緑が山を覆うのどかな時節。しかし、これからそんな空気と正反対のことが行われるのである。

 いま、立木に隠れるようにして車が停車した。中から、安っぽいスーツ姿の人物がふたり現れた。ふたりとも緊迫した空気を醸し出している。

「おい、出てきたぞ」

「あれが、斉彬少年ですね。ひとりだ・・何か抱えている。いや、何かを縛り付けられている・・・」

スーツ姿の男がふたり、普通車両から出てくると、双眼鏡で確認している。ほぼ同時に到着したパトカーからは、制服警官が数名現れた。彼らは、ふたりに敬礼すると指示を待っている。

ここは、山林からすこしはなれて、ちょっとした平地になっているところだ。つまりは、何処からでも隠れて監視することができるということだ。

「なるほど、何か巻きつけているな、あれは爆弾か、立花」

「そう思います、小折さん」

若い方が、答えた。

「・・ああ、斉彬!!」

立花たちの視線の先には、ひとりの女性がいた。有田芳子、言わずと知れた斉彬の母親である。彼女は、黒いかばんを右手に持っている。そして、左手には携帯電話があった。               彼女は、フラフラと息子へと歩み寄っていく。その表情は狼狽している。年齢よりも老けてみえた。そのようすは夕日に燃えている。それは、耐え難い不安の炎と成り果てた彼女の内心を暗示していた。

 「パパ、ママ?助けて、おじさんに殺されるー!!おじさんね、ばくだんで、ぼくをばくはつさせるてっていうんだよ!ママ、かならず、けいさつとは100めーとるいじょうはなれてね・・、はちおうじ・・・たま○○―○○―12・・・2500まんえんかばんに入れてきて、そうしないと、ぼく、ばくはされちゃう!!おじさんね、あのおばさんをころした人だよ・・・とてもこわい・・・・いい?ぼくに2500まんえんわたしてね・・えんかくそうちのついたばくだんをつけられちゃったの・・・・・もしも、ママにだれかが、100めーといるいじょうちかづいてきたら、ばくはつさせるって・・」

小折警部補の耳には、斉彬の泣き声がこびりついていた。あんな小さい子供に、あんなこと言わせるとは、なんと卑劣なやつなのか。

「あいつ、よほどの馬鹿ですよね」

「よほどの馬鹿じゃなかったら、身代金要求などするものか」

それは、立花に答えるというよりは、警部補が、自らに言い聞かせるような言い方だった。

「そうですね、戦後、この手の犯罪が成功したことはありませんものね」

「・・・・・そうだ。すべきことは、少年を無事に家族のもとへ帰すことだ・・・誘拐犯罪ではでは、顔が知られているからな、生かしておくはずはない」

「あんないたいけな少年を、誘拐するなんて鬼ですね」

立花巡査長は、少年の顔を遠めに見ながら言った。その顔は、いかにも純粋な7歳の少年だった。巡査長にも同い年の子供がいるが、それを思うと、犯人に対する新たなる憎しみが涌いてくるのだった。

 立花は、まるで映画のワンシーンを見ているような気持になった。双眼鏡の向こう側においては、感動的な母子の対面が行われていた。夕日が、演出の一役を買っている。

 「ぁあ、斉彬・・」

「ママ・・・おねがい、バッグを渡して・・・」

芳子は、どうして、息子がそんなことを言うのか理解できなかった。彼女は、このとき現実的なことを何も考えていない。ただ、息子に対する純粋な情を見いだしていただけだ。この子を産んで、7年・・・。

おかしな子だと思ったこと・・何度あったかわからない。

だけど、こうやって息子を見つめる。もしかしたら、永遠に失うかもしれなかった。

いや、いま、失ってしまうかもしれない。

そのような可能性を経験してみれば、どれほどこの子を大事に思っていたかわかる。

 芳子は泣いていた。

しかしながら、斉彬はかんぜんに冷静だった。

「ぁ」

斉彬は、まるでひったくるように鞄を受け取った。そして、中身を確認する。札束のひとつを取り上げて中身を確認する。

「中身をちゃんと確認するように言われているんだよ。もしも、中だけ新聞紙ってことになったら、僕、殺されちゃう」

「ぁあ、斉彬」

「僕、行くよ、この様子をおじさんは見ているんだよ、すこしでもおかしな動きをしたら、爆発させるって」

「だめよ、斉彬!」

芳子は、完全に理性を失っていた。もしも、視界から息子を失ったら二度と戻らないような気がした。

「僕は必ず、帰ってくるよ。安心して」

 斉彬はくるっと、回ると森の方向へとかけだした。遠近法に従って小さくなっていく我が子。芳子は、地面にうっぷして泣き出した。

 一方、立花は、芳子に向かって駈け出そうとした。

「待て、立花!どこから犯人が見ているか、わからんのだぞ」

小折警部補は部下をなだめた。

「しかし、警部補」

「とにかく、本部に連絡しよう」

「・・・・・・!!」

ふたりは、ただ、うろうろするだけだった。

 

 

 

 


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