『不可視の太陽 第一部・・・scene006

 

 

少年が部屋に侵入したとき、斉彬のイヤーフォンからは、音はいっさい流れていなかった。曲と曲の間だったのである。そのために、簡単に闖入者は、その存在を察知されてしまった。

ふたりの少年は互いに、目と目が合った。だが、このとき、まだ7歳にすぎない。視覚や聴覚がいったい、何を捕らえることができたというのだろう。

ふたりの乏しい知性や意識が何を捕らえることができたろうか。たとえ、大人であっても、知性や意識などは、しょせん、無意識の海に浮かぶ小舟にすぎないのだ。

 

このとき、ふたりの間に出現した空気について・・・。

 

 連理の翼とでも称すべき恋人の邂逅。いや、違う。

 

親友の邂逅。いや、違う。

 

洋の東西を問わず、人間の歴史上、最上級の信頼感に包まれた君臣の邂逅。いや、違う。

 

---―――榊原勘九郎と有田斉彬。ふたりは、しばしの間、時を超えた邂逅を楽しんだ。しかし、それを殺人者のドス黒い声が邪魔した。

「おい、勘九郎軍曹、どけ」

「パパ!」

「パパじゃないと言ったろう?軍曹!まあいい」

英介は、サヴァイバルナイフを斉彬に向けた。かつて、生ける沢崎洋子を、心臓への一突きで、屍、沢崎洋子に変えた一品である。未だ、彼女の血がこびりついている。

「それは、少年の目には、ケチャップにしか見えなかったか?」

英介は、じぶんの行為を小説風に語ってみた。7歳の幼児にやることではない。なぜならば、ふつうの7歳に通用するはずがないからである。

が、その結果、斉彬が示した反応は、英介の想像を超えるものだった。

「おじさん、陳腐だよ、どうみても、おじさんに小説の才能ないね」

「・・・」

ほとんど感情を示さずに発された台詞。それは、英介を激高させるのに十分だった。猛然と幼児に向かって刃をむける。

――――――――――――――――――――――。

 

 

「パパだめ!!」

英介は目を疑った。その瞬間、はじめて、息子がじぶんに反抗したのだ。勘九郎は、両腕を八の字にして、斉彬を庇ったのだ。いままで、だれが殺されようと、黙って見ていた勘九郎が、はじめて抵抗した。

 

しかし、英介にとって見れば、完全に心外だった。彼の脳裏に、はじめて妻を殴った日のことが浮かんだ。

 ある日の午後五時。休日である。ふたりは、遊楽から帰宅したばかりである。愛すべき妻は、風呂の用意をはじめている。

「ねえ、入浴剤はバスサブマリンにしようよ」

「サマータイムでいいじゃないか」

それは、新婚が叶って、一ヶ月後のことだった。出会って、はじめてふたりの間で食い違いが生じた。そのとき、英介自身の意識に登っていなかったが、こんな小さなことでも、じぶんの考えに反することを許せなかったのである。その日から、英介によりすさまじいDVが始まった。それは彼じしんにすら押さえられないほどだった。

 -----―――いま、それが勘九郎にふりかかろうとしていた。

「・・・・・!!」

勘九郎は、このとき、殺されることを覚悟したろうか。彼はまだ、DVというものを体験したことがない。英介は、なぜか、息子を殴ることはなかった。少年時代に経験したDV、そして、彼は妻にDVをじっさいに実行していた。このことから、勘九郎少年に、それをおこなう条件は十分すぎるほど満ちていると言っていい。

 では、それを思いとどめさせていたものとは何か?

それは、英介にも理解できなかった。

---―――このときも、何が、それを止めたのかわからなかった。英介は、上げた拳を振り下ろすことができなかった。かつての妻に対してならば、相手がどんな悲鳴を上げて、助けを求めようとも、その暴力を弱めることがなかった。

 

 英介が、理性を取り戻したとき、考えたことは、この少年を何としても殺さなければならないことだった。

 「勘九郎、どけ」

「パパ、お願い、殺さないで」

ふたりは、お互いを名前で呼んでいることに気づかない。すでに。生きる手段になっており、ゲームではないという証拠だった。

 英介は、泣き出した息子を抱えると、ふたたび、刃を斉彬に向けた。

そのときである。階下から音がした。ドアが開く音だった。

「斉彬!すまんげ・・・・!!?」

男の甲高い声が響いてきた。

「だれだ!?あれは?お前の父親か?」

「らしいね、どうやら、僕を構成するに必要だった精子は、彼のものだったらしい」

「そうか」

英介はふふんと笑った。もはや7歳の子供らしくないことには驚かなかった。かえって、親しみのようなものを感じた。じぶんと何処か似ているにおいを嗅ぎ分けたのかもしれない。

「逃げたいのかい?だったら、螺旋階段を使えばいいと思うな、外付けになっている。庭木が茂っているから、外から見えないと思うよ。」

斉彬は、人ごとのように言う。

「じゃあ、お前を人質にして連れて行く」

「それが賢明だね」

「だまれ。おい、勘九郎、はやくしろ」

英介は、斉彬に螺旋階段まで連れて行かせると、まず彼を先にして地上に降りた。背負ったフクロには金目のものが入っている。勘九郎はまだ泣き続けていた。普段から、感情に乏しいはずの我が子が、こんなにも、感情を顕わにすることは、いままで無かったことだった。

 このとき、斉彬に出会って、はじめて人間性が開花、いや発芽したことにだれも気づかない。当の勘九郎は、どうしてじぶんが泣いているのか、理解できないのだ。

 ただ、このとき、三人が不思議な縁で繋がれたことはたしかである。三人は、闇夜に一台のワンボックスカーを視認した。

「ねえ、これって盗品なの」

「あたりまえだろ」

ドアは施錠されていない。三人は、すぐに乗り込んだ。

英介は、キーの部分にあやしげな針を突き刺して、エンジンを入れながら答える。

「ふうん、おじさんバカじゃないんだ」

斉彬は、いっちょうらの紳士姿になった英介を見て言った。もはや、血まみれのレインコートも髭面もなかった。そして、穿いている靴さえ違った。すべて、庭に捨ててきたのである。

「おい、斉彬!!」

車の背後から、かすかに父親の声がしたが、斉彬はまったく反応しなかった。


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