『不可視の太陽 第一部・・・scene005

 

 有田夫婦が、宇都宮に向かって新幹線に飛び乗ったころ。すでに午後五時を過ぎていた。そのとき、有田家に残されたのは、わずか7歳にすぎない斉彬、ただ、ひとりだけだった。

そんな子供がたったひとりで留守番を強要されたのである。

しかし、これからもうひとりここに、留守番が増えることになる。

沢崎洋子は34歳。芳子とは、いっしょのカルチャースクールに通う者同士である。たまたま、この時、この瞬間に、このような用件において、ことを頼めるのは洋子だけだった。このことがまさに、洋子にとって不幸中の不幸だったのである。

 このとき、斉彬は自室に籠もっていた。伯母の部屋が事実上、彼の部屋となっている。その薄暗い部屋のなかで、耳にイヤフォンを詰め込み、『Silent voice』の世界に入り浸っていた。

 ロックバンド、『Silent Voice』。

1989年にメジャーデビューした彼らは、おおよそ10年になる今でも、ロックの世界のトップを走り続けている。すでに伝説と化した観がある。ファンの年齢層は高い。しかしながら、斉彬のこの年齢はどうだろう?まだ7歳の小学生にすぎないのだ。ただ、どこにでもいる7歳でないことはたしかである。彼はイヤーフォンで音楽を楽しむ一方で、目は文字を追っていた。文字は小さい。しかも、それは、子供が読むような内容ではない。

 

-----――――1990年、5月13日。紗耶香はこの日付を永遠に忘れないだろう。Silent Voiceの新しいアルバムが発売されるのだ。老婆になって、たとえ、姉の誕生日は忘れても、この日付は忘れないにちがいない。それは、彼らの初ライブの日、1988年81日と同様である。---―――――断っておくが、これは紗耶香なる人物による『日記』である。第三者の視点から始まる珍しい日記は、紗耶香が幼時から始まるものである。そのことが、彼女が非凡な人間であったことが言える。

 紗耶香の日記は丁寧にファイリングされて、年代順に本棚に収まっている。斉彬がページをめくっているのはその中の一冊である。その本棚の上にはCDの収容スペースがある。これもまた、Silent voiceの作品が年代順に並んでいた。7歳の斉彬は、それぞれのCDを聴いた後、また同じところに、収め続けている。それは紗耶香同様の律儀さといわねばならない。すなわち、紗耶香が他界して以来、この部屋は一寸もその配置を換えていない。            

 

そのために紗耶香を知る遺族や友人たちにとっては、この部屋の存在は不可思議にも不気味にも見えてくるのである。

 その中で理解を示した数少ない人物が、すくなくともふたりいる。一人目は、いま、生死の間をさまよっている有田広末、そのひとである。そして、もうひとりは、紗耶香の母であり、斉彬にとっては祖母である有田春子である。

 いずれにしろ、心を完全に閉ざしてしまった斉彬を理解する者たちは、ここにはいない。両親は完全にその埒外にある。それならば居てもいなくても同じではないか。少年自身はそんなことを考えていたのか、後年になっても憶えていない。ただ、彼の生涯にとって、大事件が迫ろうとしていることを、このとき、彼は想像だにすることはできなかった。

 

 沢崎洋子が有田家を訪問したのは午後6時のことだった。

「こんばんは・・・あれ、鍵がかかっていないわ、不用心ね・・・」

そんな声は、斉彬の耳にとって小型の蚊ほどにも感じなかったにちがいない。なぜならば、彼の耳のイヤフォンから、大音量のハードロックが流れていたからである。

「斉彬くん、おばさんですよ・・・私のこと憶えているかしら?」

洋子は、紙袋を抱えていた。中には夕食が入ったタッパが入っている。中には、汁物も含まれているために、慎重に、平行を守らねばならない。

「ねえ、斉彬くん!」

そこまで行って、洋子は斉彬のことを思い出した。しかし、当時、といっても2年前だが・・・、あのときは、彼の母親とともに、食事をしたのである。

「さいきん、私たちと食事もしないのよ、いつも斉彬の部屋の前に置いておくの・・・・いつまで、こんな生活が続くのかしら・・・」

洋子はいっしょにいなくても、芳子の深刻な顔が目に浮かぶ。

 そのときである。洋子は、背中に衝撃を感じた。そして、ほとんど同時に口と頸部に強烈な圧迫感を感じた。

ググゥ!という非音楽的な音。

その時、鋭利な刃物が、まだ若い女の背中に突き立てられたのである。

「パパ」

「勘九郎軍曹、ドアを閉めて、はやく入ってこい、靴は脱がなくていいぞ」

洋子が、最後の、人生の最後に聞いた声が、少年の美しいソプラノであったことは、せめても神様の深慮といってもよかったかもしれない。

その後の、どぎつい声は、あたりに不快な空気を醸し出していた。

 

ドサ・・。

低い音がして、女の遺体が転がった。胸にえぐられた傷からは、どくどくと血が流れてくる。おそらくは、心臓を一突きだったのだろう。

 彼女をこんなめに会わせたのはこの男である。名前を榊原英介と言う。返り血を多量に浴びたレインコートを着ている。

ソプラノの美しい少年は英介と似てもにつかないが、息子である。まだ、7歳。斉彬と同い年だ。

 見知らぬ女をこんな目に合わせるのは、一般的に見ても凶悪だが、こんな場所にまだ、幼い息子を連れてくるなぞ、想像を絶する凶悪ぶりである。彼の無精髭と爛々と光る目は、それを暗示していた。そして、まだだれからも愛されたことがないものの目だった。

 すくなくとも、そのように自覚したことがない目だった。

 「なんて、広い玄関だ・・金持ちにちがいない・・・・どんな悪いことをしてもうけただんだろう・・・」

 英介は、ぼそぼそと言いながら、中に侵入する。そのとき良いにおいがした。女が持っていた紙袋の中から漂ってくるのである。

「おい、勘九郎軍曹、中を開けてみろ」

「はい、大佐どの」

勘九郎は、紙袋を開いた。中からは、かぐわしいにおいともに、まだぬくもりが残る料理があった。それは、英介、そして勘九郎も味わったことのない家庭のぬくもりだった。いわゆる、お袋の味というわけである。

 ところで、ふたりが軍曹、大佐どのと言い合っているのは、もちろん英介の趣味である。おのれの行為を一種のゲームにしたてているのだ。そのことで、勘九郎を引き込んでいる。その凶悪さは、日本の歴史に比類がないが逆に言えば、社会や親が彼にしたことの裏返しなのだろう。

 カツカレーに、かぼちゃのポタージュとは変な組み合わせだが、その味のおいしさは、父子の想像と経験を超えていた。ちなみに、デザートはアプリコットのフロマージュだった。

 ふたりは、空きっ腹を癒すことに、しばし時間をつかった。二階に斉彬がいることなど思いもしなかった。

 さて、榊原父子は、食事をあらかた終えると、とさっそく、一仕事にかかった。大型の懐中電灯をつけると、勘九郎をうながす。

ふたりは、個人の家としては、破格に長い廊下を抜けると、豪華な居間に到着する。点灯すると、これまた豪華なシャンデリアが居間を覆っている。

 英介は、そんなものみは目もくれず、仕事にとりかかる。高そうなカーペットを土足で踏みにじり、金目ものがありそうなところを探す。

 勘九郎も慣れた手つきで、辺りをさぐっている。まっさきに見つけたのは彼だった。戸棚の奥から5万円を探り当てた。

「奥方のへそくりか?軍曹!よくやった。昇進をかんがえておくぞ」

英介は、巨大なテレビジョンの下をさぐっているところだった。小さなタンスからは、宝石箱が見つかった。中からは、オパール、真珠、青ダイヤが見つかった。

これらの物は、美しいだろうが、食べられないし、燃料になるわけでもない。ただの石にすぎない。

それらの価値なぞ、英介に理解できるものではない。しかしながら、少なくとも彼は、そのようなただの石を、重宝するバカどもがいることだけは知っている。そして、これらの物を売りさばく裏市場があることも知っている。それは外国人である。彼らには盗品だろうが盗品でないだろうが、関係ない。

 「パパ、上に行ってもいい」

「パパではない、大佐どのだ」

「はい、大佐どの」

勘九郎は、直立不動の姿勢をつくると、敬礼をした。

「ああ、行ってこい」

英介は、斉彬が上にいることなぞ、思いも寄らなかった。

「はい」

かんかんかんと可愛らしい足音が響く。

 英介は、じぶんを愛する唯一の存在に思いをはせたことがあるだろうか。彼はそんなことは何処にやらといった表情で、金目のものを探し続けている。

いまは、書類に目を通している。

「証書?・・・・」

彼は。いまの姿からは思いもよらないが、一流の証券マンだったのである。それが一転、ホームレスのようなくらしをしている。生まれつき、成績は優良で、一流国立大学を卒業し、一流の証券会社に入社した。仕事は完璧で、上司の受けもよかった。しかし、どんな社会から受ける微笑も厚遇も、彼にとっては嘘偽りでしかなかった。幼児に愛を受けなかった英介に、それを消化する能力はなかったのだ。

 それは妻から受ける愛もそうだった。いづれにしろ、英介は人間の仮面を被りつづけるかぎり、それなりの待遇を受けることができた。

ただし、たったいちどの失敗が、彼の仮面をはぐことに成功したのである。

それは、だれからも愛されなかったという、彼のほんとうの顔だ。もともと、頭の好かった彼は、表だって悪いことはしてこなかった。不幸な生い立ちは、表だっては影響しなかったのである。

母親の顔を知らないことも、死刑囚の父親を持つことも、関係なかった。そして、彼を見るたびに殴った継父も・・。

そして、近所の人間から死刑囚のこどもだと唾を吐かれて育ったことも・・。

それら、すべてをかなぐり捨てて、彼は仮面を被ったのだ。人間の仮面である。

しかし、そんなことは不可能だった。たったいちどの仕事上の失敗が、彼から理性をすべて失わせた。表だけの妻に対する愛情をもである。一度活火山と化した英介は、その処理に、妻を使った。サンドバッグを化した哀れな榊原夫人。英介の必要なDVに耐えられなくなった彼女は、勘九郎を置いて、早々に逃げだした。

このとき、英介は勘九郎から母親を奪ってしまったことに罪悪感を無意識のうちに感じていた。しかし、それが意識の上に登るまではいかなかった。当時、勘九郎はまだ3歳だった。母親の顔は覚えていない。

 

 勘九郎軍曹は、二階の例の部屋の前にいる。そう、かつて有田紗耶香の部屋だったあの部屋である。

「ここはどうかな」

勘九郎は、無邪気な声を出してドアノブに手をかけた。

---―――神様は、ここにふたつの魂の出会いを演出していた。ロック史上、強大なふたつの才能が相見える瞬間である。

 しかし、ふたりともそんなことをまったく予想してなかった。

 

 


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