『不可視の太陽 第一部・・・scene004』
「さいきん、ぶっそうね、聞いた?あなた・・・武蔵日の事件」
「事件?強盗殺人のことか」
「ええ、そうよ」
有田芳子は、皿洗いをする手つきを早めながら答えた。皿をから落ちる流水の輝きが、まばゆい。ものうい休日の朝である。しかし、ふたりの会話の内容は、なんともどぎつい。
「殺した後、放火だろう?そうとう悪質だな、でもなんで盗みが目的だってわかったんだ」
「お手伝いさんの佐藤さんが生きていたのよ、無事、生き延びたんだって」
「主人を残しての逃亡か・・・」
「封建時代じゃないんだからいいじゃない」
「っていってもな、長いこと雇ってもらった恩ってものがあるじゃないか・・・おれは基本的に資本家だから、そんな見方しかできないのかもしれない」
太郎は、タバコの火を消しながら言った。
「資本家ねえ・・・」
芳子は夫を目を使わずに見た。
「じゃ、犯人は簡単に捕まるな、そのお手伝いさんとやらが目撃しているだろう?犯人を」
「それがぜんぜん見てないって、佐藤さん言っていたわよ、ただ怖かったって・・
「さもあらん・・・佐藤さんって相当の老女だろう」
「たしか75歳を超えたって」
「ふうん、・・・・」
芳子は、ようやく洗い物を終えると、手を拭きながら夫の元へとやってきた。夫は、居間で、とぐろを巻いている。
「うちは大丈夫でしょうね・・・間違っても従業員の恨みを買うようなことはないでしょうね」
「何か、あの事件を恨みによる犯行だと思っているのか」
「かもね、あんなに残忍な事件だもの・・・・終わった後で火までつける必要はないんと違う?」
「さいきんの、犯罪は不必要に残酷だからな・・よう、わからんわ」
太郎は、新聞を投げ出すと、ソファに寝転がった。
「あの子、食事も来ないのよ・・言ってくれない?」
「お前の言うことを聞かないのか・・あ、そうか、聞かなくなってひさしいか・・」
「そんないい加減なこと言わないで・・」
芳子は、困った顔をした。その顔は、すべての手を尽くしてもう手段がないと言っていた。太郎もそれを理解しているのか、さらにごろ寝を決め込んだ。ホームレスのごとく、新聞
を頭まで被った。すると、無能な部下の顔が思い出された。
(丸山か・・・休日まで、お前の顔なんて見たくねえよ・・)
太郎は、否が応でも、ほんとうの眠りにつこうとした。
「まったく、どうしたことかしらね」
一方、芳子が、おもわず天井を仰ぎ見た。その時である。
チリンチリン・・・。電話のベルがなったのだ。
「あ、おかあさん?どうしたの」
「う?・・・」
太郎は、芳子の『おかあさん』というイントネーションから、おのれの母親でないことを確認するとじぶんには関係ないというふうに、再び新聞を被った。
「え?兄貴が?倒れたの?」
「何、広末くんが!?」
芳子のたったひとりの弟である有田広末は、当然のごとく太郎の義弟である。栃木に住んでいる。芳子の母親が遊びに行っていた際にことは起こったのである。ただし、義弟と義理の兄という以上の関係をはぐくんでいた。ギターをよくし、音楽に造詣が深いことから、斉彬と深いなじみがある。
その広末が倒れたというのである。まだ、30歳そこそこのはずだ。
「え?くも膜下出血?き、危篤だって!!?広末が!!」
くも膜下出血はひとことで言えば、脳卒中のことであり、それの10%を占める。もろくなった血管から脳の中に、血液が入り込むとその症状が現れる。強烈な頭痛とともに起こるが下手をすると命にかかわる。
太郎はそのことを知っていた。なぜならば、彼の父親がその病気で倒れたからである。
「ああ、どうしよう!広末が!!」
うろたえる芳子。しかし、太郎は冷静だった。
「はやく、栃木に行こう!はやく用意をするんだ」
「ああ、そうね」
しかし、このとき太郎は完全に冷静でいられなかった。なぜならば、斉彬のことを記憶から消去していたからだ。それは、このところ、仕事が忙しくて家庭のことに頭が回らなくなっていたからだ。
「おい、丸山、オレだ。急用ができた。明日のことキャンセル入れといてくれ」
即座に部下に電話をして、後のことを考えて、仕事の手筈は整えたが、斉彬のことは頭のなかになかった。
そのことに気づいたのは、新幹線のなかだった。宇都宮まで40分というところで芳子が気づいた。
「おい、芳子、斉彬!!斉彬!!どうしよう」
「あ!」
ふたりは動揺した。めちゃくちゃになった頭の中で、芳子が考えたのは、ある友人のことだった。おとなのための英語教室での、友人、沢崎洋子である。
「お願い、沢崎さん・・・」
「わかったわ」
「ありがとう、この埋め合わせはきっとするわ」
実は、洋子は独身だった。そのことから白羽の矢がたったのである。いや、それが白羽の矢だったのだろうか?
残酷な死に神の矢であることを知るのは、もうすこし先のことである。
「広末!おねがい!無事でいて!!」
芳子はひっしに手を合わせると涙ぐんだ。
「大丈夫だよ!きっと!!」
妻を抱きながら、太郎も心から祈った。