『不可視の太陽 第一部・・・scene003

 有田芳子は、学校から家路についていた。息子である斉彬の担任の印象はすこぶるいいものだった。今回で、対面は三回目になるが、その印象が色あせることはない。若いながら、なかなか、熱心であるし、斉彬に対する姿勢も、1,2年の担任とは、何か違うものを感じていた。その教師は、斉彬の話をするときは、いつも、背負わなくていいものを背負ってしまったかのような顔で、芳子に接するのだった。そして、いつも、それを隠そうともせず、これぞ見よがしに、顕わにしたものである。

 しまいには、「もう、いいです」と言って。芳子のほうが、先に席を立ってしまうことが何回あったのかわからない。

 そんな教師から解放されたわけであるが、「いったい、どうなってしまうんだろう」

息子の行く末に不安を隠しきれない。浴びる夕日のうっとおしいほどのまぶしさは、そんな言いようのない芳子の不安を暗示しているような気がした。

 そんなときである。芳子は駅前にある小さなCD屋の前を通りかかった。その店は、芳子が子供ころからある店である。彼女じしんは妹と違って、ほとんど音楽に興味がなかった。そのために、この店を利用したこともまったくと言っていいほどない。

 そんな店先で、目に付いたのは、“Silent Voice”の文字だった。それは妹である紗耶香がファンだった。否、人生の晩年において、この世の何よりも愛する対象だった。

小さな店先には、ポスターが貼ってある。新しいアルバムが発売されると見えて、「結成10年、伝説のバンド始動」とある。

 メンバー五人のポートレート。

 しかし、ポスターの人物には、すでに妹が好きだったという外見はない。

 当時は、女性と見間違えるほどの美男子が、中心にいてメンバーを率いていた。断っておくが、現在においても十分美形であるが、ことばの持つ本質的な意味において、違うのである。

紗耶香などは、『香ちゃん』と言ってよく騒いでいたものだ。当時、彼は化粧などばりばりにして、まさに1990年代初頭のバブル時代をカラダ全身で、体現していた。あのときは、「これでも、男なの?!気持ち悪いー」などと言って、妹の反発を買っていたものである。

 それが打って変わって、化粧など外見的なヴィジュアルを取り去っていた。

「何、これがあの香ちゃん?いまの方がいいじゃない・・・・それにしても・・・」

芳子は、時間の推移というものを感じるにはいられなかった。しかし、妹は、あの時代とともに見知らぬ空間に閉じこめられてしまったような気がする。あの部屋。あの時代で止まってしまった時間。あの部屋の時計は、完全に止まってしまっている。

  妹はまだ、生きていてあの部屋の何処かに閉じこめられているような気がする。はやく助け出して、新鮮な空気を吸わせなければならない。芳子はそんな想いに囚われてならない。そして、いま、彼女の甥である斉彬が、紗耶香と同じように囚われている。

 いや、紗耶香が斉彬を呼び込んでいるのかもしれない。

ふたりを取り込んだその元締めは、このロックバンドなのだ。

「ロックバンドに妹を盗られてしまった・・・・」

そう芳子は妹の葬式で、集まった人たちに、そう打ち明けたものだ。

―――――夕日は、空を朱に染めて風景を黄金に変える。芳子の視界には、遠くのビルや橋梁が赤くなるのが見えた。

 四月の風は、あくまでも健やかだった。

「深く考えても仕方ないか・・・あ」

そのとき、芳子が見つけたのは、近所の主婦仲間だった。彼女のブランド物のバッグからは、それに不釣合いな大根の葉っぱが顔をのぞかせていた。

「あ、有田さん、こんにちは」

「お久しぶりですね、近藤さん」

短い挨拶の後、話題はさいきん、問題になっている事件のことになった。

「このごろ、物騒ですわね、荒木さんの家で、強盗殺人があったんでしょう?柏木さんの家に刑事が来て聴集しに来たんですわよ。いやですねえ」

「まあ、そうなんですか・・・」

芳子は片耳で、その話しを聞いていた。強盗殺人と言っても、人ごとにしか聞けないのが、きょうびの日本人の常である。あくまで他人ごとにしか聞こえなかった。荒木さんというのがなにがし、何処で殺されようとたいした関係があるわけではない。

ただし・・・・。

「・・・武蔵日町で・・・・」

「え?武蔵日町なんですか?」

しかし、自宅から思ったよりも近くで事件が起こっていると聞くと、いささか注意を向けざるを得なかった。

「怖いですわねえ」

それでも、たいした内容の発言をすることができなかった。そんな緊急を要する話しなのに、かなりぼっとしていたのである。家の近くまで来ると警察らしき人物がパトロールをしている。物々しい空気が、そこはかとなく漂ってくる。

 そんな中で、近藤夫人は言ったのである。

「ちょっと、見ていきます?奥さん・・・・武蔵日に・・・」

「え?」

元来、これでも芳子は好奇心は旺盛なほうである。もっとも、亡くなった妹ほどではないが・・・。

 芳子は、それを抑えきれずに、恐る恐る答えた。

「そうですね」

ふたりは、非常線が張られている荒木家へと向かった。2時間ドラマばりに、制服警官が仁王立ちであたりを睥睨し、私服警官がその間を徘徊している。そして、その周りを黒山の人だかりが囲んでいた。非常線を意味する黄色いリボンは、あくまでも荒木家を民間人から隔離していた。

 荒木家を見ると無残に焼け焦げている。あの大きな家が変わり果てた姿を晒している。さては、昨夜の火事騒ぎはこのことだったのか。今朝は、ろくにニュースも見なかった。

 それにしても、あれから何時間も経つのに、見物人が減る様子はない。荒木家はこの辺りでは、有名な資産家であるとはいえ、これは異常ではないか。芳子はそう思った。マスコミ関係者などもまだ、散見される。

その時、廃墟の中から、警察関係者とおぼしき人々が、出てきた。彼等は一様に、証拠品と思われる品々を携帯している。その一群は、男も女もみんな、表情を硬くしているのが、芳子には印象的だった。

「あの手のプロってみんなああなのかしら?あんな人たちに取り調べられたら、いくら何をしていなくても、自供してしまいそうね」

芳子はそう思った。

 そんな芳子が気になるものがあった。それはむさい髭ずらの男と6歳くらいの少年である。斉彬がいるせいか、彼と同じくらいの年齢の子がいるとつい、見てしまうせいもある。

 その男は、なにやら興味ありげに火事現場を観察している。

 芳子はその男を見つけると何か、ピンと感じるものがあった。男は、芳子を見つけると、なにげに睨み付けた。あまりの恐ろしさに、芳子はビクッとまるで蛇ににらまれた蛙のようになってしまった。

「ねえ、もう行きましょうよ、有田さん」

「え?・・・・じゃそうしましょうか」

芳子は近藤夫人の声に、自分を取り戻すと、廃墟と化した荒木家に尻を向けた。


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