『不可視の太陽・・・第一部scene001

 斉彬が握っているドアノブは、どれほどの高さにあるだろうか。そんなことまじめに考える人はいるだろうか。

斉彬は、産まれたときから、こんなに簡単にドアノブを握れたわけではなかった。ただ、これだけはたしかな事実である。

 

 これから語られるのは、いまから、ちょうど14年前、ちょうど斉彬の背丈がドアノブの高さと同じだったときのことだ。

晴れ渡る空、それは何処までも続く螺旋階段のようだった。しかし、ここで働く有田芳子の心を、かならずしも示していなかった。

 「あれ?いま、ドアの音がしなかった?ねえさん」

「そうかい?わたしが見に行くよ」

 芳子は、洗濯物を止める手を止めた。下の方で、かすかに音がしたからだ。自分は家事で忙しいために、たまたま、遊びに来ている姉の芳香に頼んだのだ。やれやれと階下へと降りていく姉。それを見送ると、再び、洗濯物と格闘をはじめた。

いまは、午前10時半。まだ、息子の斉(なり)(あきら)が帰ってくるには早すぎる。

 息子は小学校2年になったばかりだが、なかなか学校に居着かない。学校に行っても、

すぐに帰ってしまうのだ。そんな息子の様子を見て、登校拒否の兆候ではないかとやきもきしているのだ。

 「ねえ、斉彬、学校はそんなにいやなのかい。いじめられることはあるのかい」

かつて芳子はそう聞いたことがある。

 「わかったよ、ママ、学校から帰らないよ」

「帰っても良いのよ」

「ええ?いいのお?」

「ただし、学校がみんな終わって、先生が帰っていいって言ったらね」

「うん、ママ」

そのときに見せた息子の可愛らしい顔を忘れることはできない。そうなのだ。杞憂なのだ。

ちゃんと、息子は学校で勉強している。親の欲目で見ても頭の言い子なのだ、きっと・・・・。

 

しかし、芳子はその不安を払拭することはできなかった。すぐに、それが杞憂でないことが判明する。

 

1996年、5月、新緑のころのことであった。

 

 「ああーら、斉彬ちゃん、学校もう終わったのかい」

ばたん・・・。

姉の声とドアが開いて、閉まる音。この二つを同時に聞いたとき、芳子は、息子がもう帰ってきたことを知った。そして、姉にかまうこともなく、自分の部屋に閉じこもってしまったのだ。そして・・・。

芳子は次ぎに来るモノが容易に想像できた。

 

「・・・・」

しばしの沈黙の後・・・・。

ゴゴゴゴゴゴ!

それは激しいドラムの連打だった。

「はじまった・・・」

芳子は右腕で壁によりかかり、左手でじぶんの重くなってしまった頭を支えた。

 一方、芳子の姉の芳香、斉彬にとってはとうぜん、伯母にあたる人物であるが・・。

芳香は、斉彬の部屋の前で立ちつくしていた。部屋のむこうから流れてくるメロディはとてもなつかしい味がした。みずからは別に好きではない、いや、むしろ嫌っていたとすら言えるが、えもいわれない懐かしさを内包していたのである。

 そのとき、芳子も姉のところにやってきた。

「ねえさん」

「芳子・・これ、斉彬が聞いているのかい?」

よしかは、妹の顔を見た。

「・・・・」

「ここはあの子の部屋よね・・・・母さんは、ずっとそのままにしてたはずだけど・・・」

芳子は答えない妹の代わりに、自分で答えた。

「いまは、斉彬が使っているのよ、ねえさん」

芳子にはドアの向こう側が見えるようだった。たとえ、ドアが閉じられていたとしても、その向こう側が、あたかも透視できるように、細かなところまで見えた。なぜならば、芳子はこの家に住んでいたからである。そして、この部屋には、彼女の末の妹であるさやかがいた。

 そして、いま、ある錯覚に陥っていた。

芳子は、さやかが生きていた時間に戻り、この場にいるのである。部屋の中から聞こえてくる音楽は、さやかがよく聞いていた音楽だった。いや、聞いていたと言うのは適当ではない。魂のすべてを奪われるほどに陶酔していたのである。

 「・・・・・」

芳子は何も言わずに、ドアを開けて、中に入った。芳美もそれに続く。

「・・!」

「・・・!?

ふたりが見たものは、妹だった。すでに死んでしまったはずのさやかだった。CDデッキを正面に見据え、ドアに背中を向けている。入ってきた母と伯母などまったく気にせずに、音楽に聞き入っている。音楽に合わせて、脊椎を揺らす仕草や手つきなどは、かつてのさやかを彷彿とさせた。

 ただし、当時、さやかはすでに高校生だった。そして、目の前の少年は、まだ君付けよりはちゃん付けのほうがふさわしかった。何か事件があって、斉彬が誘拐なり殺害されるなりすれば、マスコミや警察は『斉彬君』ではなくて、『斉彬ちゃん』と報じるだろう。

 とにかく、二人の体格の違いは明確だった。にもかかわらず、ふたりは見間違えたのである。

 

 部屋の中に在るものは、すべて妹そのものだった。右の壁には、彼女が心酔ロックバンドの集合写真がかかっている。まるで高価な油絵のような扱いだ。ちゃんと額縁にはさまって、長身長髪の美青年がにらみを利かせている。

 そして、正面を見ると、大きな写真が立てかけてある。もちろん、この部屋の主である。さやかその人である。遺影は、あたかも時が止まってしまったかのようにそこにある。

 過ぎ去った笑顔は、いったい、何を見つめているのだろうか。

芳子は、妹がいまでもここにいるような気がしてならなかった。このような音楽が流れているとなおのことその思いを強くするのだった。

 

 「斉彬」

「・・・」

「斉彬!聞いているの?学校に行かなかったら、この部屋に入ったらだめだって言ったでしょう」

芳子は、妹の激しく叱責する声に、現実に戻された。妹は、甥を厳しくしかりつけているが、そんなものどこ吹く風で、まったく意に介していない。

 このとき、芳美も妹も斉彬の未来をどのように見ていたのだろうか。杞憂が杞憂でなくなりつつあることはたしかだった。しかし、それが本格的な登校拒否にいたるなどと、思わなかった。いや、思いたくなかったのかもしれない。

 「これ、斉彬、聞いているの・・・・ねえ?」

芳美が言葉を続けようとしたとき、斉彬は6歳児とは思えない手つきでCDをデッキから取り出して元に戻すところだった。

「わかったよ、ママ」

斉彬は、あたかも、この瞬間に母親を迎えたかのような様子だった。まるで独り言のように言った。


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