『不可視の太陽 第三部 scene005』
とりあえず、その日は夜まで眠ることにした。心身ともに疲れきっていたからである。何しろ、真夏の連続ライブの後で、あの体たらくだったから。疲れないほうがおかしい。ふたりはそれぞれの寝具にもぐりこむとえんえんと寝続けた。
夜の帳が落ちると、ふたりは夜行動物のように目を覚ました。ふたりとも熱いシャワーを覚醒剤の代わりにすると、食欲を満足させるために、電話に手を伸ばした。ピザを頼もうと言うのである。
「しかし、斉彬くんの家に招待してもらうのは、はじめてだよね」
「招待だなんて、そんな大げさな」
斉彬は苦笑すると、機能するはずのない携帯を開いた。
「防水だったらよかったのにね」
「いまどき、防水じゃないなんてまさに骨董的だったが」
「それはお互いじゃない」
「オレたちannoymousはアナログっていうことだろう」
「じゃ、沙耶さんもそうかな」
「あいつは全身電気娘っていう感じだから」
斉彬は自分の言い方がおかしくて、思わず噴き出した。
「とにかく、腹は減っては戦はできないっていうからな」
そう言って、電話を回した。ほとんど指紋が付着してない備え付け電話である。携帯電話は、一昔前では、まったくSFの世界の出来事だった。それが隆盛であるこの時代。ほとんど携帯だけで済んでしまう。
斉彬は、L型のピザを二枚注文した。
--――――そんなに食べられるの?とは、勘九郎は言わなかった。それが無意味であることを熟知しているからだ。結果、ふたりは、それらのピザをほぼ81%を前者が平らげ、後者が残りを処理した。そもそも、L型のピザなどというのは、四人ぐらいで処理するものである。それを二枚、性格を期するなら、その81%を斉彬が平らげたのである。どれほど大食かわかるだろう。一体、あの細い躰の何処に入るのだろう?勘九郎でなくともみんな、一度はぶつけてみたい疑問だった。
「おい、早くしろ、出かけるぞ」
「ううん」
--―――出かけるぞという口調から、すでにこのマンションが彼のすみかになっていることを意味した。勘九郎はそれが嬉しかった。が、それを素直に外に表すかれではない。
マンションの地下にある駐車場に行っても、車があるわけはない。それは沙耶が乗っていったのだから、当然のことである。
「車が・・・・け、ま、当たり前か」
「そうだね」
「仕方ない、電車でいくか」
「もう、あしたにしようよ、遅いから迷惑になるんじゃない」
「オレの実家だぞ、迷惑もあったもんじゃない」
「斉彬くんはそうかもしれないけど、僕は・・・・」
勘九郎は、もじもじしている。
「秋だって喜ぶさ、さ、行こう」
「うん」
斉彬の実家は、首都圏のとある県にある。新宿から、急行で1時間と要しないはずである。
「う、まだ暑いぜ」
「うん」
夜の帳が降りたというのに、蒸し暑い風が吹く。最寄りの駅まで歩いて五分くらいである。そこまで行くあいだに、気持ち悪い汗が背中を伝っていく。
「ねえ、どうして今日にこだわるの」
「良いから来いって、話しは着いてからだ」
斉彬は夏空を仰いでいった。そこには、赤いアンタレスが輝いていた。夏の星座としてはあまりに有名な蠍座の主星である。それは夏の夜空に、まるではめこまれた宝石のように輝いていた。赤いのだからさしずめ、それは大玉のルビーであろう。いったい、何を暗示しているのだろうか?勘九郎には、不安の象徴にしか見えない。一方、斉彬には、手中の珠に見えた。赤色巨星として常に不安な状態にあるアンタレス。だいじに扱わないと壊れてしまいそうだ。しかし、天体としてのアンタレスと違うところは、それが既に老人の星であって崩壊直前であるのに、対して勘九郎は、明日が無限にある若い星であることだ。
ただ、不安であることには違いがない。斉彬は、勘九郎の男としては大変に華奢な腕や手、そして首を見た。それは、普段から弱々しく見えたが、内面のことがある以上、より華奢に見えた。それは、あたかも透明に見えるようだった。透けるように白い肌の下の血管が浮き出て見えた。
有田家に到着したのは、夜も八時を過ぎてのことだった。そのとき、幼児である秋は、もう寝るところだった。ちなみに、彼女は斉彬の妹である。幼稚園児にすぎない彼女とは優に15年も産まれた年が違う。
「にいちゃん!!」
ふたりに飛びついた幼女。その瞳はらんらんと輝いている。昼間に遊び疲れたことなぞ、あさっての世界に置き忘れたかのようだ。
芳子が迷惑顔を外せなかったことは当然のことである。せっかく寝付いた秋がふたりによって起こされ、かつ、災害の種とさせたのだから。
「こんな時間になんなの」
「いやあ、食事は済ませたからさ」
「・・・・・?よく聞こえなかったけど」
「だから食事は・・」
「聞こえているわよ。全く連絡もなしにこんな時間にやってきて、食事をくれなんて、私の息子が言うわけないもんね、しかも」と言いかけて止めた。なぜならば、視線をうつした先に、勘九郎がいたからだ。
「まあ、いいわ、夜食ぐらい用意してあげる」
芳子はそう言うと奥に消えていった。
斉彬は、軽くあしらうと、勘九郎を自分の部屋へと誘った。秋は、翌日遊んでもらうという頼りない約束を信じて、寝具に戻っていった。
「どうしようもなくいいよな、幼児は」
「え?」
勘九郎は、斉彬が何を言っているのか理解できずに、うなずいた。限りなく狭い階段を上がっていく。狭いだけではなく角度が急なために、慣れないと躓いてしまう。他人の家にあがったときによくあることである。
------------―――――。
部屋に入って、電灯がつけられた。
「勘九郎?どうした」
「・・・・・・」
勘九郎は、何も言えなかった。そこには、何事かが書かれていた。あるいは描かれていた。斉彬から、何度も聞いていた通りに、Silent Voiceがあった。そして、無音であっても彼等の音楽が流れていた。
まさにそのアルバムあるいは、歴史というのにふさわしい様子だった。彼等のデビューから今に至るまでのCDあるいは、雑誌類、そしてファイルがその順番に並んでいる。あたかも、大学の図書館の一部のようである。ある偉人の項目があるだろう。そこには、彼の歴史が一区画に、凝縮されて整理されているにちがいない。そんな感じなのだ。
「あれ?紗耶香さんは・・・・」
「これか、あとはオレがやった、そしてやり続けている」
みなまで言わなくても、斉彬には、勘九郎が何を言いたいのかわかった。どうして、彼女の死後のぶんも並んでいるのか。そういうことである。
有田紗耶香の時は、永遠に17歳で止まっているが、この部屋はそうではなかった。その死後、しばらくして、斉彬という受け継ぎ手を得て、新しい血と肉体を得たようなものだった。CDや雑誌やファイルは更新され、新鮮な空気と滋養を得ている。しかし、勘九郎は、それに得体の知れない恐ろしさを感じるのだった。斉彬ははたして、ここから自由になることができないのではないだろうか?と・・・。しかし、いまの勘九郎に、そのような認識を意識化するだけの余裕がない。
遠くのネオンサインが、風に乗って、静かの音楽を運んでくる。ふたりにとって、この部屋だけに宇宙が存在し、その宇宙に彼等だけが生きている。そんな錯覚に、ふたりは陥っていった。ふいに、それを打ち破ったものがある。ドアのノックがあって、返事も待たずに開いた。
「お夜食よ・・・」
芳子だった。
「・・・それがお夜食というなら、日本語の使い方が変わったんだな・・・というより常識やマナーに変遷があったというべきか」
「何よ、その言い方」
斉彬の言い方に抗議する芳子。
「大方、夕食の残り物じゃないのか。二階までレンジの音が聞こえたぜ」
息子は、トレイにのっているものを見ていった。それは餃子だった。手作りの味は懐かしかったが、一言文句を言っておきかったのである。
「何よ、あげないわよ、お前には・・・まったく、餃子の皮から作ったのに」
芳子はありえない事を言った。
「いえ、おかまいなく」
この母子の間に入るのは、どうかと思ったが勘九郎は勇気を持って言ってみた。
「いえ、息子があなたみたいに素直な子だったらよかったんだけど」
「そんなことないですよ」
「ご両親はさぞかし、お鼻が高い事でしょう」
「いえ、いまのところ、父親は泉下の人ですし、母親は行方知れずです」
「ま、ごめんなさい」
「おまえ、それは初耳だな」
その事実は、斉彬にも初耳だった。思えば、勘九郎の個人的なことに関して、あまり知らされていない。
「父親は何も教えてくれませんでしたから、母親の顔さえわかりません。写真の一枚すらなかったんです。そのうえ、親戚たちと父は断絶していたみたいですし、もしも有名になったら、連絡がつくかもしれませんけどね」
「お前、そういうつもりでやっていたのか」
「それは今、思いついた事さ」
勘九郎は言っていて、不思議に思った。斉彬にさえあかしていなかったことを、どうしてこうもすらすらと芳子の前では、言ってしまえるのだろうと・・・。まるで催眠術にかかったかのように、言いにくかったことが流れ出してくるのだ。
------------―――――――――――――――。
「それで・・・・」
勘九郎は、放心したように外の月を眺めていた。芳子と斉彬は、どうしていいかわからずに、同じようにしているしかなかった。まるで、光に影が付き従うように・・・・・。
「じゃ、勘九郎くん、冷めないうちに食べてね」
ふいに語りかけられて、ふたりはとっさに反応できなかった。
「あ、美味しい、斉彬くんはこんな美味しいものを食べて、育ったんだ」
「久しぶりだな、母さんの餃子」
そんな二人の会話を廊下で、聞いて、芳子は嬉しかった。
---――――あの子はこの歳になってやっと人の血と肉を得た。やっと人の気持ちを会得してくれた。
わずかに涙ぐみながら、階段を下りていった。
「なあ、どうして、オレがお前をここに連れてきたと思う」
「あのこと?でも、どうして、ここじゃないといけないかわからない」
「・・・・・・」
斉彬は無言で答えると、棚に向かった。そして、一枚のCDを取り出した。
「見てみなよ、8センチCDだぜ、いまはもうないよな」
CDをデッキに装着する。聞こえてきたのは、勘九郎が耳慣れた曲だった。Silent Voiceの初期の代表曲である。
『白い弾丸』
Bullet bullet bullet!
Cold bullet…….
彼女は そのとき、衝撃や痛みよりも冷たさを感じた
冷たい 冷たい 冷たい
苦痛、恥辱、恐怖よりも はるかに冷たさを感じた
冷たい 冷たい 冷たい
はじめて出会った相手 それも、おのれを陵辱している相手に・・・
怒りはみじんも感じなかった
ただ 感じたのは その冷たさ
----―――――彼女は、カラダ全体で、男を絞り上げた それは ―――
男が受けたことのない 愛
あるいは 愛を愛であると 受け取れない
あたしは あんたを知らない
名前も知らなければ 年齢も知らない
どんな父母(ちちはは)から生まれてどんな友達と育ったかも知らない
ただ 知っているのは あんたの冷たさだけ
そして その冷たさが あんたに由来しないことだけ
俗に言う「手の冷たいひとはこころが温かい」って
そんなこと 本気で信じていたわけじゃないけど
既に夜のとばりが落ちて、しばらく経つ。ボリュームを相当下げなくてはならない。しかも、通常の曲よりもかなり絞らねばならない。しかし、Silent Voice、ヴォーカル『香』の声は、はっきりとわかる。
「この詞の本当の意味を知っているかい?」
「初期らしく、ことばでことばを語っているよね」
勘九郎は内容には触れずに、単に自分の感想を言った。
「たしかに難解なメタフォアを多用する、今の詞とはちがうけれども、本質はそんなことにあるんじゃない、これは君にも十分関係することなんだ」
斉彬はことばを選んで言った。彼は、勘九郎に対して、何も思っていないと言ったところでわかってもらえないことは必定だった。では、どうすればいいのか。
「それがこの詞となんの関係が?」
「ここにファイルがある。これはSilent Voiceがインディーズのころのことだ」
それは、紗耶香がライブに言ったときには、かかさず付けていたレポートである。
「・・・・・・これはすごい珍しいものだねえ」
野球のスコアラーのように緻密に書き記されたレポート。演奏された楽曲は当然のこと、曲と曲の合間に行われるMCやライブ中に突如起こった事故なども、詳細に記されている。それだけでなく、自分の感想も書き込まれていた。
「この歌詞は、香さん自身が経験したことなんだ、あるいは間接的に経験した。矛盾しているように聞こえるだろうけども、これが真実だ」
勘九郎には、斉彬の言っていることは理解できなかった。
「・・・・わからないか?わからないだろうな・・・・これは、メジャーデビュー以前のライブにおいてのMCだが・・・・・」
奥歯に何かを挟んだ言い方は、あたかも、自分の家族に関する秘密を暴露するときのようだ。それほどに大事に思っていることが、彼のことばを通じて伝わってくる。
「香さんは父親を知らないらしい。なぜならば、香さんのお母さんを強姦したのが複数いたからさ、おそらくはそのひとりが父親だとMCでまくしたてていたとレポートには書いてあった。『白い弾丸』という詞は一見ありえない内容だが・・・・・強姦されている女性が、男の孤独を感じ取って愛してしまうというはなしだからな。あくまでライブで聞いたことをレポートに書いただけだから、一言一句正しいかわからないが」
「それが僕と?」
「香さんは、母親を通じて、父親を赦しているということではないかな」
勘九郎は、斉彬が何を喋っているのかわからなかった。まるで演説をしているようだ。会話が成立していない。そのような思いを深くするのだった。しかし、彼が、何事かを訴えようとしているはわかった。そして、勘九郎のことを想っていることも・・・・・。
「でも香さんのお母さんはどういうきもちで、香さんを生んだのかな」
「当時、17歳の女子高校生だったらしい」
「17歳!?」
それは有田紗耶香が、はじめての異性におのれの躰をむさぼり食われながら、逝った歳である。実の父親が、斉彬の伯母にまで手をかけていた。その事実を勘九郎が知ったら、気が狂ってしまうにちがいない。もちろん、ふたりが血縁関係にあることなぞ、英介は知るよしもなかった。ただ、斉彬をその毒牙にかけたとき、一種の既視感を感じたのだ。
「でも、それと結びつけるのはナンセンスだよ」
「ナンセンスじゃない!どうして、わかってくれないんだ!?」
斉彬は怒鳴った。
「こんな事実を知ってしまった以上、ここにはいられない」
「こことは何処だ」
わかっていて、あえて言う。
「もちろん、バンドだよ」
「ふざけるな、話しは行くところまで行っているんだぞ」
「お金の話し!?」
「金だと!?」
斉彬は、勘九郎の胸ぐらをつかむと、勘九郎を床に押し倒した。
「いいよ、斉彬くんになら何をされてもいい、どうせ、僕の中の血は腐っているんだ」
「どうして、わざと自分を貶めるようなことを言うんだ!?それで、オレにお前をあきらめるように仕向けているのか!?」
「もう、僕はだめなんだ。おやじは死ぬ前に言った。」
「?」
斉彬は目を見張った。
「遺したお金を、斉彬くんのために使うようにと・・・・さいしょ、僕はわからなかった・それがこんな理由だなんて!!」
「で、お父さんは何で亡くなったんだ」
「お父さん?亡くなった!冗談じゃない!あの人間のクズ!くたばったんた!!あいつは、癌で死んだ。当然の報いさ!しかし・・・・・」
こんな剣幕の勘九郎を、斉彬は慣れていなかった。ライブの上で、ときたま見せるプレイは、これだったのかと、変な納得をさせられた。
「しかし・・・?」
「最後の最後は弱々しくて・・・・」
「弱々しくて?」
斉彬は、まるで鸚鵡のように返した。何かをうながすように。
「・・・・・とにかく、わかることは」
「わかることは、お前が嘘を付いていることだ」
「!」
それは、あまりにも真実をついているぶん、勘九郎は仰け反った。それでも、とぼけてみせるだけの余裕は残っていた。
「何が!?」
「あの夜、お前は、オレたちを付いていっていないな」
あの夜とは?付いていくとは?すべて勘九郎は知っていた。しかし、それをとぼけて見せなければならない。
「それはなんのことさ」
「オレがわかっていないとでも思っていたのか。おかしいじゃないか、そもそも、お前は知っていて、オレに近づいたってことじゃないか。それでは話しが合わない」
「・・・・・・・・・・・」
「なあ、勘九郎、あれ嘘だろう?だったらどうして知ったんだ」
その質問に、勘九郎は答えなければならなかったが、どうしても言葉が出てこなかった。
しかし、「君の口からだよ」その言葉が、しばらく後であっても、出てきたのか自分でもわからない。
「何?」
斉彬は、当然、その意味を理解できない。
「もしかして、それはオレが意識を失うことと関連があるのか」
「・・・・・・・・」
勘九郎は、詳しく説明するしかなかった。