『不可視の太陽 第三部 scene006

 

「そんなことが!!」

斉彬は絶句するしかなかった。自分の周りで、自分を中心にして、そんな輪が存在したとは!それは斉彬の俊敏な頭脳をしても、難問だったに違いない。

「・・・・!!」

斉彬は頭を抱えると、長い足を投げ出してベッドに倒れこんだ。自分のまったく記憶のないところに、そんな自分が存在する。そんなことは、どうしても信じられなかった。しかし、勘九郎が、知るはずのないことを知っていること。そして、何よりも、彼が声を大にして言ったこと。そのことが、信じざるを得ない状況に彼自身を追い込んでいた。

「オレは病気なのか?勘九郎」

「・・沙耶さんは、確定的なことは言っていなかった」

「それは多重人格って言うんじゃないか」

乏しい精神医学の知識から、専門用語を絞り出した。

「だから確定的なことはわからないって」

「いい、直接聞いてみる・・・くそ!!」

まだ携帯を回復していないことを思い出して、毒づいた。

「いい、オレが記憶を失っていたときのことをすえて、話してみろ、克明にな、それから、外山滋比古なみの論理性と谷崎潤一郎なみの文学性と備えろよな」

「外山某って何もの?言っている意味、わかっているの?」

冗談なのか、それとも、勘九郎をごまかすために言っているのか?精神的に不安を抱えるとわけのわからないことを言うのは、いつものことである。もしかして、自分じしんをごまかしているのかもしれないが・・・。

 勘九郎は、説明をはじめた。

「いきなり、女子校生になって僕を怒鳴りつけた」

「・・・!?それで?」

斉彬は深刻な顔に、戻って聞いた。

「沙耶さんが言っていたよ、あの行為の最中になったて」

「オレが女にか!?」

 勘九郎の説明はまるで、箇条書きのようで、谷崎の文学性に乏しかったし、外山の論理性にも縁遠かった。

斉彬はただ、唖然とするしかなかった。

「斉彬くんが女性にだなんて、我慢できないかもしれないけど・・・」

「そ、そんなことない」

「?」

きっぱりと否定したのは意外だった。

「実は、夢の中で女性だったことは、話したことがあったな」

「うん、でも、それはあくまで夢の中でしょう!?」

「たしかに夢は夢だ・・・しかし・・」

斉彬は、絶句するしかなかった。おのれの体内でいったい、何が起こっているのか?

「ううぅ!」

「どうしたの?斉彬くん」

斉彬は、口を押さえて倒れ込んだ。

「気持ち悪いの」

勘九郎は、まるで傷ついた夫を看護するような妻のように寄り添う。

「・・・は・・・なせ・・・」

「え?」

「離して!!」

「え?」

勘九郎は、驚いて、引き下がった。抱いている物体の温度と硬度が急に、変わったような気がしたのである。

「あなたは・・!?」

勘九郎は気づいた。目の前にいるのは、斉彬ではない。彼を睨むその目は、男性のそれではなかった。彼女は、胸を両腕で隠して、猫のように丸まってしまった。肩胛骨が浮き出た背中は、何故か色っぽく感じた。

「名前を教えてください、あなたは誰なのですか」

「わ・・たし・・・?あ、有田・・な、斉彬」

高い、かすれた声がした。斉彬お得意のファルセットだと、勘九郎は思った。

「あ、あなた、何処かで出会ったことがあったわね」

「もしかして、浴室で、ですか?」

「そうだわ、あなたが連れ込んだんじゃない・・・・こんどは私の部屋に入り込んで、どういうつもり?!」

斉彬は、彼女は、勘九郎目掛けて飛びかかってきた。それを予測できなかった勘九郎は、虚を突かれ、簡単に倒れてしまった。思わずも、勘九郎を押し倒した形になった。斉彬から吐き出された息は、たしかに女性のそれだった。勘九郎は、乏しい異性経験からそう思った。

「こんなことしてられない!行かなくちゃ!!」

「何処に!?」

「何よ!その態度、人の家に入り込んで、その余裕は!!」

「あ!」

その時、勘九郎の手がCDデッキにぶつかった。すると、停止していたデッキが再始動した。それは、ある種の生き物の目覚めを思い起こさせた。

 残酷なまでに、感情を抑えたヴォーカルが響く。

 Bullet bullet bullet!

Cold bullet…….

彼女は そのとき、衝撃や痛みよりも冷たさを感じた

冷たい 冷たい 冷たい

苦痛、恥辱、恐怖よりも はるかに冷たさを感じた

冷たい 冷たい 冷たい

はじめて出会った相手 それも、おのれを陵辱している相手に・・・

怒りはみじんも感じなかった

「ど、どうして?これってラジオだよね、だって・・・・・」

「CDですよ」

「え?!・・・・・」

急に、斉彬の様子がおかしくなった。おもむろに、頭を抱えて、苦しみだしたのだ。

「ぃ!いやあああ!!やめてぇ!」

「え?」

金切り声とはよく言ったものである。夜の闇をつんざいたその声は、芳子の耳にも届いた。

勘九郎はどうしたらいいのかわからず、立ちつくしていたが、やがて、斉彬を押さえはじめた。とにかく、静かにさせなければ、と、考えたのである。

両手首を押さえつけ、床に押しつける。

「お、お願いだ!静かにして」

 しかし、あえて、やってみると、わけのわからない罪悪感が襲ってきた。

--―――まるで、女性を強姦しているみたいだ。僕は一体何をやっているのだろう。

「どうしたの!!?」

激しくドアが開くと、芳子が立っていた。

---――――大の男二人が絡み合っている。これは何?それに、あの曲がすでにリリースされているなんて・・・・・。

 

「斉彬くんが急に!!」

「あ!ママ!!」

「え?」

斉彬は、ものすごい力で、勘九郎をはねのけると、芳子に飛びついた。芳子は、事態を理解できずに、ほとんど反射で、息子を受け止めた。

「ど、どうしたの」

「ああああああ!!寒いよ!ママ!寒いよ!!」

勘九郎は、しだいに、理性に満ちてくるのを感じた。そして、不思議に思ったことがある。斉彬は、おのれの母親を“ママ”と呼んでいただろうか?勘九郎は、斉彬が乱れるにつれて、自分が冷静になっていくことを感じていた。どうしてだろう。このふたりは、いずれかが、常に不安定なのである。それで、友情が成り立っているのか。

一方、芳子は、泣き叫ぶ息子を必死の思いで押さえていた。

--――――いったい、この感覚は?

「何があったの?」

芳子は勘九郎にそう質問するしかなかった。

「わかりません、急にこうなって・・・」

勘九郎とて、こう答えるしかない。そのうちに、斉彬は一人で寝入ってしまっていた。

「寒いって、熱でもあるんでしょうか」

「いや、そんなことないわ」

芳子は自分の額と、斉彬の額を触れながら言った。

「この子、いつからこうなの」

「これが最初ですよ、いままでこんなことなかったです」

勘九郎はうそをついた。問題を複雑にしたくなかったのである。彼は改めて、部屋を見回してみた。たしかに一度、来たことがある。鮮やかな思い出が蘇る。

---―――――かつて、父親とともに強盗のために押し入った。

あの時とほぼ変わっていない。まるで、時間から完全に取り残されたかのように。

 本当に、あれから時間が経ったのだろうか?勘九郎は、改めて思った。もちろん、隠しカメラなどあったわけもないのだが、自分たちの画像がこの部屋の何処かに刻み込まれているような気がした。

「うう・・・・」

「あ、斉彬!」

「かあさん?!オレは・・・・・?」

たしかに、斉彬は母親のことを“ママ”とは呼んでいなかった。すると・・・。

「・・!!」

思わず後ずさる斉彬。それは当然の反応だろう。なにせ、20歳になる男が、母親の胸もとに抱かれているのだ。そうならないほうがおかしい。それは親離れなどというレベルのはなしではないだろう。

「ご、ごめんなさい」

「謝ることはないわ、一体何があったの」

「ママたちを置いて行っちゃって・・・ご、ごめんなさい・・うう・・ぅ!」

「?」

わけのわからないことを言って、泣き出した斉彬。芳子は、何故か、心落ち着くものを感じた。

 --―――おかえりなさい。

何故か、心のなかでそのような言葉が浮かぶのだった。

 三人は、三様に固まってしまった。

 

 一方、有馬祐介の別荘では、彼と姪が遠くにゆらぐ夜景を肴に、一杯やっていた。ちなみに、薫子は、奥で洗い物をしている。

「ねえ、いつまで仮面をつけているつもりなの?私もその片棒をかつぐのも疲れたんだけど」

ふいに吾川沙耶が口を開いた。

「・・・そうだな、メジャーデビューして10年経ったらいいかな」

「冗談言わないで」

祐介の言い方に、本気で腹を立てた。斉彬たちの前では、大人然としていられる彼女だが、ここでは違う。祐介はムキになったときの姪の顔が好きだった。

「・・・・いま、私の正体を明かす必要が何処にある?言うなれば、私は産婆のようなものかもしれない」

「産婆?」

「デビューから、20年、私たちも疲れた。やっと後継者を見つけられたというのだ。ここは慎重になっていい」

祐介は、煙草を灰皿に投げ捨てた。そして、そのまま、立ち上がって夜景にその身を晒す。

「私は、おじさんに言われたから、バンドやっているんじゃないけどな」

「そうしたら、そうしたらで、手を打ったさ・・・いや、打たなかったかもしれない。自分でもよくわからない」

「まったく、音楽やっていないおじさんはただの、おじさんだね」

「言ってくれるね・・・」

「でも、どうしてライバルを育てたいの?わざわざ」

「前にも、言っただろう?現代の音楽シーンの悲惨な状態さ」

祐介は、頭を振って言った。

「まったくの中身ナシさ、見てくれだけのマネキン人形が横行している。それは音楽だけに限らない。芸能文化すべてに当てはまるものさ」

「・・・・・」

沙耶は何も言えずに、祐介のかたちのいい唇が動くのを見るだけだった。

「別に、オレたちが文化の継承なんて言う大げさなことを言っているわけではない。ただ、自分たちの後に、骨のあるものを見届けて老後をおくりたいんだ」

その両者がどう違うのか、沙耶は理解できなかったが、あえて追求しなかった。

「老後?」

「そうさな、この世界では、40歳が定年かな、本来ならもうそこにいてもいいはずなのに、こんなところにいる。なあ、40代の歌手なんて、若いときの流行歌だけで喰って居るヤツが多勢じゃないか、公共放送なんかでよくやってる番組のなかでな」

「寺井のおじさんなんて、まだ新たなるSilent Voiceを追求するだなんて、はりきっているじゃない」

寺井正毅は、Silent Voiceのギターリストであり、バンドの主要作曲家である。沙耶は幼いときからなじみがあった。

「そうだな・・・30年以上のつきあいだが、あいつのことはいまだにわからんが・・・ともかく、あの二人のことをよく見守ってくれや」

突然、本題に話しが移った。

「私に全責任を押しつけるつもり、私だってまだ若いんだけど」

「・・・・」

今度は祐介が黙りこくってしまった。

「とにかく、内蔵をえぐられる苦しみは、私にはよくわかるつもりよ。あの家に生まれればね」

「・・・・」

「さくらのコンサート行ったんだって?」

沙耶のほうから、切り出す。

「ああ、チケットが届いていたからね」

何処か遠慮がちに、祐介は返した。

「私のところへも来てたよ・・・・実は行ったんだ」

「本当か!?」

祐介は目を丸くした。

「本当は、さくらがこの役適任じゃないの」

「バカ言うな、お前とさくらじゃ才能のあるところが違う、あいつにはあれだけの曲は書けないだろう」

--―――まだ克服していないのかと祐介は嘆息した。

「そうだといいね」

沙耶は、斉彬たちの前では決してしない表情を見せた。気弱な一面である。

そして、おもむろに立ち上がると言った。

「寝るね」

「ああ」

祐介は気のない返事をするとソファに沈んだ。外を見ると動かない星々が、いまだに変わらず輝いていた。

「あんたさ、沙耶ちゃんがかわいそうじゃない。折角、自分の道を歩んでいたところだったのに」

「うん?」

妻の声に、さらに気のない返事をした。

彼女の実家、すなわち、吾川家は有名な音楽一家である。明治以降、有名な音楽家を何人も輩出している。その家に生まれて、ひとり医師となった彼女には、沙耶の気持が痛いほどわかった。何かを訴えようとしたが、うまく言葉にできない。

しかし、祐介は暗闇のなかに、ひとり沈んで妻を一顧だにしなかった。

 

 斉彬の実家。

斉彬は、ベッドに沈んでいた。母親は、心配を残しながら自室に帰り、ふたりはふたり、二様に沈んでいた。

 沈黙を破ったのは、斉彬だった。

「どうして、オレは自殺が許せないのだろう?」

「・・・・・・・」

勘九郎は、すぐにはその問いに答えることはできなかった。

「さきほどの空白で、何かを得たような気がする。たとえて言うならば、夢かな。内容は憶えていないが、たしかにその夢を見たという記憶はあるそんなこと君もあるだろう」

「夢はたいてい、憶えているよ、僕は」

「じゃあ、昨日はどんな夢を見たんだ」

「フランシスコ・ザビエルとダンスする夢」

「なんだ、それは?夢の中で女だったのか、オレみたいに」

「え?」

「それだけは憶えている、しかし、お前に言われてじゃない、どういう実感を得た。さきほどの体験でのことだ」

「何か、おぼえているのかい?」

勘九郎は身を乗り出した。こんな事は初めてだからだ。斉彬の意識が変容して、その記憶を持って帰ってくることは、いっさいなかった。

「とにかく、自殺に対する怒りに対する感覚・・・自殺と言っても積極的なそれではなかった。何か、生きられるのに、その手段を講じなかったような・・・そんな感覚だ」

「彼女はもう死んでいるの」

「そうみたいだ、とても寒いところで、おきざりにされて・・・彼女は寒い寒いって言っている。そして、家族に謝罪している」

「どうして、死んじゃったの」

「わからない。具体的なことは」

静かに斉彬は、ただ目を瞑った。

 

 ここは、祐介の別荘。いま、トイレにいくために部屋から出てきたところである。この部屋は、よく、彼女の従兄弟が使う部屋でもある。

「あら、沙耶ちゃん」

「あ、伯母さん」

薫子は、姪のパジャマ姿を可愛く見た。

「彩ちゃんのどう」

「少し小さいかな」

沙耶は、音大に行っている従姉妹の顔を思い浮かべた。いかにも今時の女の子という感じに、身体を包んでいた。渋谷や原宿にでも行けば、すぐに出会えそうだ。そんな女の子がピアノを前にすると人が変わったようになるのだ。

教授たちは、彼女のそんな外見と内面との違いに戸惑うのだった。隔世遺伝とは言うが、才能もそうなのだろうか。薫子の母であり、沙耶にとっては祖母にあたる女性も、そのようによく言っていたものである。

「眠れないの」

「うん」

「じゃあ、少し付き合わない?」

薫子は、ネオンサインが見える回廊へと誘った。偶然を装っているが、手に酒瓶とグラスを持っていることから、それが嘘であることは明白だった。

「立ちながらの酒もいいものじゃない」

「そうね、ここは良い風がくるわ」

ふたりはまるで姉妹のように会話をはじめた。

 

 紫色の風が吹いてきた。

「どうしたのよ、縮こまっちゃって」

「どういうこと?伯母さん」

沙耶は、わかってきて聞いた。それは、彼女が小さいころ、良く言われていた言葉だった。家にいたたまれずに、薫子のところに逃げ込んできたときもそう言われた。

「あんたは永遠に、私の姪だってことよ」

「それはさくらちゃんも?」

「決まってるでしょう」

薫子は、眉を少しつり上げた。ネオンサインを背にする。

「あんたたちのライブ行ってきたわよ」

「どうだった?」

「あんたが音楽をやるとは、まったく想像できずに、興味があって行ったんだけど」

「興味?」

沙耶は、なぜかその言葉に反応した。

「おもしろくなかったわ」

「何?その答え」

良いとか悪いとか言わずに、その答えである。それは、まったく予想できない答えだった。

「好かったの?悪かったの?」

「だから、おもしろくなかったって言っているじゃない。良いとか悪いとか、そこまで達していないってかんじかな、でもあの二人はおもしろかった、ヴォーカルとギターね」

「斉彬と勘九郎君でしょう」

「あの二人まるで夫婦みたいだった」

「ちょっと、やめてくれない?人の彼氏を」

沙耶は苦笑して言った。

「そう、あの子、あんたの彼氏なの」

「何よ」

沙耶はまるで母親に不平を言うような顔をした。

「あんた、あの子たちを信用していないでしょう」

「え!?」

「ここでするような顔、見せたことないでしょう?あの子たちの前で」

それがあまりに図星なので、沙耶は反論することはできなかった。

「あんた孤立している感じよ、祐介はほめていたけどね」

「あれはほめるって感じじゃない、単なる皮肉よ」

「わかってるんだ、あんたでも」

薫子は、夜の風を纏うように言った。

「あれほどの人が簡単にほめるわけないじゃん」

「ねえ、沙耶、なんで祐介が香って名前にしたと思う」

「世界が青かったから?」

沙耶は思いつきで言った。

「そんなんじゃないわ。私から取ったのよ、私から正毅を奪った償いにね」

「まさたけ?寺井のおじさんのこと?」

会話に出てきた意外な人物。沙耶は、興味に駆られた。

「私たちはバンドをやっていたのよ、Лубянкаってバンドをね」

「ルビヤンカ?ソ連の!?」

「ふうん知っているんだ?若いのに」

「たまたま、冷戦を舞台にした小説を読んでたんだ」

ルビヤンカとは、旧ソ連において、市民に蛇蝎のように怖れられた刑務所である。もっとも、刑務所というよりも、収容所と言ったほうがいいかもしれない。政治犯。共産党にとって反体制人物と目された人物をここに収容したのである。

 「なんで、そんな名前にしたの」

「たまたま目に入った、新聞を読んでいてね」

「ふうん、おばさんもいい加減なんだ」

「だけど、小説のように伏線になるんだ、それがね」

薫子はいたずらッコのような目をした。まるで、少女のように。

「もしかしたら、奪ったって寺井のおじさんをヘッドハンティングしたの?」

「そうよ、よくわかってるじゃない」

バンドの世界ではよくあることなのだ。

「誰が、言ってきたのさ、おじさんじゃないよね」

「いえ、そうよ、私から奪ったって言ったでしょう?祐介がね」

それは、穏やかな祐介の性格からして、考えられないことだった。ただ、若いときの彼のポートレートなどを見ると、何か鬼気迫るものを感じて、沙耶はあまり好きでなかったことを憶えている。

「その時こう言ったの、「ルビヤンカに、寺井を閉じこめておくな」って、傑作でしょう」

「・・・」

「彼の言語的センスに屈したわ。それで正毅を無条件で渡したの」

「音楽に降伏したんじゃなくて?」

Silent Voiceは、香の詩的センスと、正毅の作曲のセンスが融合してできあがっているのよ、どちらが欠けてもダメ。両者はお互いを補完しているのよ」

「でも、そんなおじさんと結婚したんでしょう?」

「それは別の話しになるわ」

そのことはいまは語りたくないようだった。それを沙耶は察したから、あえて追求しなかった。

「でも、どうしてそんなことを言うの」

それは音楽に限定した質問だった。

「なんでかな?いま、このことを話すのが一番適当だと思ったから。あいつは神でもなんでもないってこと」

「・・・・・」

「ねえ、さくらちゃんや、姉さんが苦しんでないと思って?」

「姉さんはねえ、母さんと違うのよ、いつも私を庇ってくれていたわ、もちろん、若いときはそれが屈辱にしか感じなかったんだけど」

「おばあちゃん?」

沙耶はピアノの前にいつでも座っている老人の姿を思い浮かべた。さくらとよく、彼女の家に泊まりに行った。とても優しく指使いを教えてくれたことを憶えている。

「私が罵られるといつも庇ってくれたわ、才能の違いをね、姉さんとのね。母さんにはどうして、わたしが姉さんみたいに弾けないのか理解できなかったみたいね、よくぶたれもしたわ」

「あのおばあちゃんが?」

「それを見て育ったから、あんたたちを見て、それは苦悩していたわ」

そんなことを本人を目の前にして言える。それはふたりが真実の母と子のような絆を得ているからだ。薫子も、その言葉の意味がどんなものか、知ってのことである。

「わかっているって、どうしていまごろ、そんなこと言うの」

「それよ、それを隠さないの!あんたの中で生煮えになっているものがあるんだから」

「誰の前で」

annoymousの中でよ」

「え?」

「本当のあなたを晒していないでしょう?」

薫子の言葉は、沙耶の何を刺激したのだろう?

 

 一方、斉彬たち。このとき、四人は、ひとつやふたつ、同一のネオンサインを見ていたかもしれない。

「とても寒いんだ、とても寒かった。オレはそんなところに寝かされていた。窓の外では、白い物が落ちていた。それはぼた餅のようだった」

「窓?」

「それはとても小さな窓なんだ。そして、天井がとてつもなく低い。まるで、呑まれそうなくらい・・・・私は・・・」

「!?」

斉彬が一人称を『わたし』などと呼ぶのは、とてもめずらしいことである。勘九郎は、目を見張った。また始まろうとしているのか。

「とても悲しかった。昔こんなことがあったんだ。小さいとき、兔を家族で食べたんだ。家で飼っていた兔だった。食べたら、とても悲しい気持がした。悲しみそのものを食べたような気がした。自分のカラダすべてが悲しみに置き換えられてしまったかのような気がした」

斉彬は自分で何を言っているのかわからなくなっていた。

「パパが、私に兔をえらべって言ったの・・」

このとき、斉彬は自分の体験を言っていたのではなかった。かつて読んだ物語の中から、抽出していた。それを自分の体験と置き換えているわけだ。

「とても可愛がっていたのに・・・」

しかし、勘九郎はそんなことを知らない。ただ、斉彬に、自分を失わずにする方法を考えるばかりだ。

「斉彬君!」

「オレは、あそこを白い花園のように思っている」

まるで過去を思い浮かべるように言った。彼にとって、それは過去のことだった。宇宙空間のような闇にそっと浮かんだ島宇宙のようだった。それを勘九郎は悟った。

「斉彬君、今どこにいるんだい?」

だから大きな声で彼の名前を呼んだ。

「・・・・」

「それは過去のことだろう?そうだね」

「オレはかつて自殺をした。生きられるはずなのに逃げ出さなかったんだ。それは彼を愛してしまったから・・・」

 「彼?愛して?」

「私、その人の名前は知らない。ただ、とても悲しい目をしていた。あんなにひどいことをしていてもひどい目をしていなかった・・・」

 

 

 祐介の別荘。

「私は、斉彬たちに必要ないのよ、おじさん流に言えば、私だって産婆なのよ、この若さでね」

こんな感情を乱した沙耶は、薫子にとっても珍しいことだった。

「それを隠すなって言っているのよ、私は」

「私?私に、音楽の才能なんてない」

まるでだだっ子のように騒ぐ。こんな姿は実母の前では、ほとんど見せたことはない。なぜならば、相当昔に、ピアノの才能において、妹に叶わないと悟ったとき、すべてを決めてしまったからだ。それは母親に愛されないということである。

「それでも、あえて音楽の道を選んだのあなたでしょう?!」

薫子は、すべてを知ったうえで言った。その言い方が、あまりにありがちだったのをわかってのことである。

「だったら、彼等にも失礼でしょう・・・私だってこんなこと言いたくないのよ、言葉にできない、あんたの辛さはよくわかるのよ!しかし、いつまでそれに座っているつもり?」

薫子は感情的になった。しかし、それが沙耶を動かした。薫子は自分で言った通りになったのである。感情こそが感情を動かす。理性だけで人は動かないものである。

「・・・・・」

沙耶は立ちあがると、おばの顔を避けるように、外に視線を移した。

 

斉彬の実家。

斉彬と勘九郎は互いに向き合って、まるで面会のように話していた。

兎とは何か?それは、まったく別の世界のことのように勘九郎は思った。口調から、かなり低年齢のように見えたが、その子も、いま、向き合っている斉彬も、女子高生と目される少女もみんな、斉彬の一部のように思えた。なんらかの理由によって、分かれているにすぎない。別に、それに対する根拠があるわけではないが、何故かそう思えたのである。それらを統一するには、バンド活動が適当に思えた。沙耶にそういわれたからではなく、実際にやってみて、うまくいっているときの斉彬はまさに勘九郎が思っている彼だった。しかし、そうなると勘九郎自身が精神を失調してしまうのだ。

 --――――もしかしたら、そこに自分の存在価値があるのだろうか。たしかに、いま、勘九郎はおのれの精神の明瞭さを楽しんでいた。まるで、覚醒剤を打ったごとく、明確に外界が知覚できるのだ。これは何を意味するのだろう。

 真底、目の前の人物を助けなくてはならないと思える。かつて自分の父親が犯した罪など忘れて・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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