『不可視の太陽 第二部 scene009』
喫茶店爆破事件の翌朝、芳子と秋は自宅に帰っていった。芳子がドアを開ける瞬間に、吾川沙耶と対面したが、なぜか感じた不快感を否定できなかった。芳子は、ライブにいって以来、斉彬たちと沙耶の組み合わせに本能的な嫌悪を感じていた。それはあくまで漠然とした意味においてだったが、その時特にかれらは結びついてはいけないと思ったのである。
沙耶は、あらかじめ勘九郎の携帯からすべてを勘九郎から告げられていた。だから、真実を確かめるべく、あたらしい朝日との出会いとともに、この下宿へと足を運んだのだ。
まずは、勘九郎が無事であったことをねぎらった。沙耶は、事件の詳細を知ろうとテレビのスイッチを入れた。
まだ、四人が食べたピザの箱やら残骸やらが、我が物顔で、テーブルの上で踊っている。
そのピザの匂いも消えぬまま、テレビアナの非個性的で人工的な声が木霊する。
「・・・・以前、捜査本部は鋭意調査中であると発しているだけです・・・確信は闇のなかに・・・」
テレビからは、都心で行われた爆破事件の様子が報道されている。警察もマスコミもまだ事件の背景をつかみきっていないようだ。
「母さんたちは、真ん中の柱に助けられたんだな」
斉彬が報道による解説と芳子の話を合わせて、そう悟った。二人は爆心地から近かったにもかかわらず、ほどんと軽傷ですんだのである。
報道が発表したのは6名死亡、18名重軽傷、1名行方不明という惨事である。なお、容疑者は即座に逮捕された。現場近くをうろうろしていたアラブ系の男である。彼を職質した警官によると、街の真ん中で浅黒い男が、土下座していた。警官を見ると逃げ出したので、即座に捕縛したということである。あとから、その男が容疑者であることを知って驚いたらしい。
勘九郎は、パックのまま牛乳を飲み干す斉彬を見ている。その姿は、さっそうとしていて。自分の親が九死に一生を得たとはとうてい思えなかった。よもや、自分の実母を姉と呼んだことなど、髪の毛の先ほども見受けられない。思えば、斉彬が浴室にて女子高生に変化したときもそうだったが、その時のことを何も憶えていない。
「私がかけた暗示がまだ有効ということだろうか」とは、沙耶の意見だった。最初に、斉彬の意識が変容したときにかけた暗示のことである。酒によって、記憶が後退した彼に、そのときの記憶を忘れるように、暗示をかけたのだ。
「秋のヤツ、口にチーズがまだついていたぞ・・・でも、つくづく、秋が弟でなくてよかった」
一リットルの牛乳パックを飲み終わった斉彬は感慨深げに、言った。しかし、さいしょに言ったことがごくあたりまえのことだったために、後に言った大事なことばをふたりは聞き逃していた。
彼は、窓の外を眺めている。強烈になりつつある初夏の朝日とともに、新たなる日が始まっていた。窓から下界を見ると、豆粒のような人々がかしましく行動をはじめているのがわかる。ここはかれらが講師として、あるいは学生として所属する大学から200メートルの場所にある。大学の主塔であり、象徴である白亜の塔はここからよく見える。
「あー眠いな、勘九郎、今夜ライブだったよな、もういっかい寝ようか・・・授業さぼって」
「教師を目の前にしてよく言える」
「残念ながら、オレは心理学部じゃないし」
「・・・・・・・・・・」
「で、斉彬はどうしたいのさ」
ここで、沙耶が一言入れた。いきなりの突っ込みである。その言葉は直接法とも間接法とも言えた。
「だから、さぼりたいって」
「そういうことじゃなくて、ほんとうにやりたいことは?」
「・・・・・・」
斉彬は返答に窮すると、唇をそっと噛んだ。それはごく無意識的な行動だった。それは斉彬とて、自分が何処かおかしいことに気づいているからだった。自分で知らないうちに他人が、自分の中に住んでいる。そんな感覚を否定できずにいるのである。一連の行動の中で、記憶がとぎれる時間帯がある。そんな事実が、彼を不安にさせる。そして、それだけでなく、沙耶の言葉がなおさら不安を助長するのだった。
「私は、いいんだよ、名前を出しても。もう頃合いだろう?」
沙耶は自分から話題を振った。彼らがやっている名無しロックバンドの話である。
「沙耶さん・・・メジャーとの話し?」
「いいんですか?学会に影響ないんですか」
「学会って、私は講師にすぎない。ただの成相教授の秘蔵っ子さ」
成相教授とは、日本におけるトランスパーソナル心理学の権威である。トランスパーソナル心理学とは、宇宙と個人を結びつける心理学の一分野のことである。
「その成相教授の秘蔵っ子って身分を棒に振ることになりますよ」
斉彬は、かつてピザが入っていた箱を片づけながら言った。内部の残骸がガザこそと音を立てる。
「お前たちがいいならな・・・・もっとも、この私が再び音楽の道を行くとは思わなかったがな」
「いいんですか?その年で講師にまでなった人が」
「この国はじめての飛び級、それも有名国立大学の医学部だってみんな騒いだっけ・・我が家以外わね」
「・・・」
「・・・・!?」
沙耶が自分のことを話すのは珍しいことだった。それは、付き合っている斉彬とて、そうだった。
「お前ら、吾川さくらって知っているか」
「新進の少女ピアニストでしょう」
最近、マスコミで騒がれているピアニストのことだ。若干17歳。天才美少女と一世を風靡している。
「我が家は、有名な音楽一家でね・・ひいじいさんがあの山田耕筰の薫陶を得たってぐらいだから・・・親等的にいちばん近しいのが母親さ。母親が一流のピアニストで、サラブレッドってやつ。わずか、17歳でショパンコンクールに出場だって騒がれたでしょう?」
「あれ、私の妹さ」
「え?全然似てないですよね」
勘九郎は、ごく最近にテレビのなかで、発見した少女を思いだした。彼女の指は鍵盤の上を熟練のダンサーのように踊っていた。その音は、ピアノには詳しくない勘九郎の耳にも、感動を与えたものである。CDも買った。
アーティストの姓を見ると珍しい吾川だった。とたんに思い浮かんだのは、もちろん、吾川沙耶その人だった。
しかし、その容姿は似てもにつかなかった。だから、常に側にいる沙耶を見ても、姉妹とは思わなかったのである。
「いや、オレはもしやとは思った」
斉彬が嘴を出す。
「あいつは母親に似たのさ、私は父親に似た。あいつが産まれたときに立ち会ったんだからたしかさ、DNA検査したわけじゃないがね。私は、中一のときにピアノをあきらめた。思えばあいつのようやくその年であいつの才能を理解できるようになったんだな」
「どうして、僕たちとやろうとおもったんです」
「さあな、音楽をやめたと言っても、作曲はやっていた、譜面にはしてなかったけど」
「それほど斉彬くんの存在は大きかったんですか」
「そうさな・・・・」
何処の邦の方言だがわからない嘆息をすると、
沙耶は、感慨深げな顔で斉彬を見つめた。勘九郎は、その美貌から意図を読むことはできない。
「お前の専門の精神科医になりたい」
「・・・・・」
ふと、沙耶の口から出た言葉が斉彬の心を動かした。それは完全に唐突だったから、場の空気を一変させるのに十分だった。一方、勘九郎は、自分の存在がその場から引けていくのを感じた。勝手にラブロマンスをはじめてしまったふたりに、ただ驚くだけである。勘九郎は、ただひとりまるで、その舞台上に居るべきではない俳優だった。
おもわず目を背けて、もう一度戻してみると沙耶と斉彬は、互いの距離を縮め合っていた。もう互いの吐息が感じられる距離だ。
あなたがたね、ここに僕はいるんだよ。わからないんですか?勘九郎はそう叫びたくなったがどうにか押さえた。そして、早々に隣の部屋へと退散することにした。その時である、背中を向けた勘九郎に沙耶の声が突き刺さった。
「おい、何している?今夜のライブの話をするぞ」
はいはい・・。わかりました。頭の中で言うと、勘九郎はふりむいた。
「うわさで集まってきた固定客も増えていることだし・・・バンドの名前も考えないとな」
「しつこいようですが、さきほどのことはいいんですか」
「まさか、学者が音楽禁止っていう話でもないし・・・私はいいんだ・・・そりゃ、両立が不可能だってことくらいは覚悟している」
「それならいいんです」
「そもそも、その覚悟がなければ声はかけないし」
「それにしても、よく名無しバンドで、人がついてきたものだ」
斉彬が言う。
「どっちにしろ、この世界実力さ、なんと言ってもな・・・・・もっとも人づての情報というのは怖い気もするが、一体どこから支流がどうつながっているかわからない」
「何と言っても不思議なのは、曲名1、曲名、2、曲名3で、ファンがついてくるんですから」
勘九郎はその辺のいい加減さをいさめたつもりだった。しかし、このふたりには全く聞こえていない。
斉彬と沙耶の音楽性は正反対だった。斉彬は自由奔放だし、一方、沙耶は音楽は数学であると自説を展開するくらいだから、ごく基本と根源に忠実だった。このふたりのやりとりは偶に怒鳴りあいにまで発展することもあったが、沙耶が斉彬をつねにリードし、それはまるで馬の手綱を引く騎手と馬の関係にも見えた。
しかし、ほんとうに苦労していたのは勘九郎だったかもしれない。相反する、ふたりの音楽性を裏から支え、エスコートしていたのは彼だったのである。音楽と音楽がぶつかる。これがふたりのカウンセリング行為に見えたのは、勘九郎だけだったろう。高校のときからバンドをやっていた彼が、あり合わせのように連れてきたドラムとベースは、斉彬と沙耶に出会って驚いた。
「これで、おれたちもメジャーデビューできる」
そう確信した。音楽的個性に乏しかったかれらだが、それを理解するだけの音楽的素地は持ち合わせていたのである。ただ、それだけに三人のバックバンドにはうってつけだった。なお、勘九郎もバックバンドのつもりだったが、後についたファンと斉彬と沙耶はそうは受け取ってくれなかった。
斉彬の発作も起きず、音楽活動は順調に進んだ。しかし、二人の背後でギターをかき鳴らしながら、常に不安を隠しきれずにいた。まるで、細い糸の上を歩くような、二人の歩みがである。ビルとビルの間は、常に冷たいすきま風が吹いている。足の下には、まるで蟻のような人々が蠢いている。
いつ、斉彬が意識を失って、『ある少女』に変化してしまうか知れない。それがステージの上だったら、観客たちの手間冗談じゃすまない。それだけではない、普通の状況でそれが起こったとしても、困るのである。ベースとドラムのふたりは事実を知らない。まだ、ごく音楽上の付き合いに留まっているからだ。
斉彬のヴォーカルセンスには惚れきっているふたりだが、彼の変容を見て、どう反応するだろうか。それを勘九郎は怖れているのだ。
蟻のような人々は、勘九郎に、自分たちが立っている場所の危険性を報せる。一体、どんな高い場所にいるかということを嫌でも悟ってしまう。一歩でも間違えば転落イコール死ということもあり得るのだ。
――――斉彬と沙耶は、音楽談義に花を咲かせている。今夜のライブについて話し合っているのだ。一見して、それ論争やケンカに見えた。それほど激しく、火花を散らしているが、その反面、それほどまでに本気であることの証左でもあった。