『不可視の太陽 第二部 scene010』
踏み荒らされた花畑は 愛撫のかいなく死にゆく
凶暴な熊は 花々を踏み荒らす 父親が幼い息子を強姦するがごとく
「・・・・・・・・・・・」
「どうだい、勘九郎」
「・・・・・・・・・・」
榊原勘九郎は、ただ嘆息するだけだった。斉彬に見せられた歌詞にただ驚嘆しているのである。その日の夜、ライブという段になって、第二曲の歌詞を代えたいと言い出したのである。
「凶暴な熊か・・・・」
吾川沙耶は、何かを引き出すかのように言った。しかし、斉彬はそれに反応しなかった。いや、反応したかったがそれをあえて隠したのか。沙耶は、それを斉彬の表情から読み取ろうした。心理療法家の目にとって、微弱な電波から、一つの電波を探ろうとする行為にひとしい。
「ここまで言うなら、第二曲とか第三曲じゃなくてちゃんとした題を付けようよ」
「そうなるとおれたちの匿名性がどこかに行っちゃうな・・・・名無しバンドがね・・・」
斉彬は、かすかに牛乳に濡れた唇を動かす。それは、勘九郎には母乳に見えたのは何故だろう?
「無印良品と同じで、すでに匿名っていうわけじゃないと思うけど・・・・まあ、それはいい。とにかくライブ前にリハやってみようよ」
「いや、オレたちは即興性がウリじゃないか」
勘九郎の問いに否定的な意見を言う斉彬。
「生の方がいいってことがあるかもしれないな」
沙耶。彼女は、まだ、探ろうとしている。この人間の秘密を知るための鍵がいったいどこにあるのか?いま、彼女は恋人を恋人として見ていなかった。完全な心理療法士として見ていた。
「ああ、何か、オレの中で噴出できないガスのようなものが立ちこめているような気がするんだ。もしも、少しでもそれを刺激したら、一変に爆発してしまうかもしれない・・・」
「衆人環視の前で、それをあえてやってみたいというわけ?」
勘九郎は、自分の頭をなでなでしながら天井を見た。金色のいが栗頭である。それは針のように掌に刺さって気持ち悪かった。掌にはじっとりと汗が滲んでいたのである。
沙耶と勘九郎は互いに見つめ合った。その時である、チャイムが鳴った。インターフォンに近づく斉彬。
「ああ、来たのか、君らに暗号を教えていなかったな・・・・」
斉彬の口が動いた。
「ふたりが来たってさ」
実はかれらがいる下宿は、一回玄関において暗証番号による入場者審査を行う。家族以外には報せてはいけないことになっているが、斉彬は、沙耶には教えてあるのである。もちろん、斉彬はふたりにはそれを教えずに、審査解除の操作を行った。じき、かれらは、玄関に現れるはずである。
ベースとドラム担当者は、勘九郎の高校時代の同級生である。
演奏技術にはいっていの評価がある。インディーズの仲間内で、ある程度認められているということである。友人の多い勘九郎のことである。もっと仲がいいが、技術において劣るものはいくらでもいた。勘九郎は、彼の交友範囲で最高の者たちを誘ったのである。
「この熊って言うのは、何か暗示的」
ベース担当である美樹本が言った。
「沙耶も言ってたんだよな、みんなそれに引っかかっているみたいだ。オレは熊でもトラでもよかったんだが」
「踏み荒らされる花畑は?」
無口な原田が言った。ドラム担当の青年である。時代遅れのソバージュが印象的である。それは置物のように両肩にかかっている。
「原田くん、なんだと思う」
「直感だけど、少年だと思う」
このとき、斉彬の動揺を見て取れたのは、沙耶と勘九郎だけである。斉彬は密かに奥歯を噛んだだけだったから。
「どうしてそう思うの」
「ただ、映像で浮かんだだけ・・・ジャケットもそうしたらいいと思っていたからかも」
「ジャケット?こんどのCDの?また真っ黒じゃないの」
美樹本が言った。ベースの弦を弄んでいる。
「今回の第一曲から第10曲まで見てみると、何故かいたいけな少年の像が浮かぶ」
どうしてか、原田はいつになく饒舌だった。
「・・・・・・・・」
「斉彬くん大丈夫?」
勘九郎は、青く震える斉彬に危惧を覚えた。
斉彬は奇麗な顔を片手で隠して、うめく。
「どうしたの?有田さん」
原田と美樹本は驚いて、ソファに座りこんだ斉彬を見舞う。一方、沙耶は勘九郎に眼で合図をする。斉彬が意識を失う。換言すれば、意識が転換するのは、必ずこういう風になるからだ。二人からなんとしても遠ざけなければならない。
「隣の部屋でやすませよう・・・ね、斉彬君」
原田と美樹本から遠ざけるようにして、勘九郎の手が斉彬を包もうとした。その時、それは起こった。
「え?ここは何処?お兄ちゃんたち誰?」
突如として、意味不明の言葉を発した斉彬。
原田と美樹本は互いに顔を見合った。勘九郎と沙耶は、予見しえぬ事態に頭を抱えた。
斉彬はまっすぐ前を見ていた。その目つきは先ほどまでの彼のそれではなかった。それはふたりの男にもわかった。
「有田さん?」
「ええいままよ、いま、何年だったけ?」
「沙耶さん!?」
勘九郎は絶句した。
「もはや。ふたりに隠しておくことはできないだろう・・・ねえ、いま、何年」
「1997年・・・」
「何歳?」
「6歳」
いったい、今度は何がでてくるのか?勘九郎は固唾をのんで注視する。今度は女子高生じゃないのか?1997年、6歳だって?
「ここは何処?おじさんは・・・勘九郎くんは・・・?」
そのひとことは、勘九郎を驚愕させるのに十分だった。沙耶は心理の専門家の目を向けている。それはごく理性的で冷静な達観した視線である。一方、原田と美樹本のふたりは何が起こったのかわからず、目を丸くするだけだ。
「おじさんがいる・・・・おじさんと歩いている・・・森の中・・・勘九郎くんはいない」
「そこは何て言う場所かわからない?家から近いとか」
「八王子だよ」
「どうして、そんなところにいるの」
「おじさんに連れられてきたの・・・・僕、家がいやだったんだ」
「どうして」
「家にいると・・・あそこは僕の家じゃないんだ・・・・・いや、ここは僕の家じゃない・・・かたつむりが、自分の家が自分の家じゃない・・・そんなかんじ」
「どうすればいいのかしら」
「きっと、このおじさん、僕を殺してくれる・・・・さっきも殺したんだよ、おばさんをね、おばさんごはんおいしいんだよ・・・この前つくってくれたエビのドリアはおいしかった」
いまや、沙耶と斉彬との会話から、勘九郎はすべてを悟っていた。
「どうして、殺してほしいの」
「ここは僕がいちゃいけないところだからさ」
「ここは私がいるべきところではない」ほとんど同時にふたつの違う声が響いた。
それは斉彬の声と別の誰かの声だった。美樹本は本能的に、それが女の子の声だと思った。
「・・・・この手は斉彬のもの、そして、この足も・・・・声も、私はあんなに上手歌えないのに・・・・・少しでも香ちゃんに近づきたかったけど・・・・カラオケで歌うときぐらいは、香ちゃんと・・・・香ちゃんになりたかった・・・・でも・・・・この世にあんなに美しいひとはいない・・いや、あの人は人間じゃない・・・きっと神様の化身なんだわ」
それは、幼児の台詞ではないし、まして、平素の斉彬の言い方ではけっしてなかった。あえて言うならば。それは、一編の詩に見えた。そのセンスは、確かに斉彬だった。『名無しバンド』として20曲あまりを共に過ごしてきた四人には、自明のことだった。
「ねえ、沙耶さん、これはいったいどういうことなんですか」
思わず沈黙を我慢できずに声が出た。美樹本である。
「もうひとりの斉彬だ」
「それって、多重人格ってことですか」
沙耶が心理学者の卵であることを知っての発言である。
「断定はできないが、芝居でないことはたしかだ」
沙耶がすでに眠ってしまっている斉彬を見下ろした。彼は、床に座って足を抱いて、寝息を立てている。
「そして、目を覚ましたとき、さっきの記憶はない・・と思う」
「なんだ?勘九郎、お前も知っていたのか」
「ああ」
「いや、今度の場合はどうかな、多重人格というよりは、記憶後退と言ったほうが適当だろう」
「記憶退行?」
「ああ、子供時代に戻ったということだ。それも通常の思い出し行為ではなくて、ほんとうに子供時代に戻ったんだ。彼にとっては1997年なんだ」
「それにしては大人びてましたね」
原田である。右手がソバージュを弄んでいる。それはまるで馬のしっぽだった。
「それは斉彬くんですから」
「勘九郎、当時の斉彬さんを知っているのか」
「僕がはじめて、彼に出会ったのは6歳のときさ、さっき僕の名前を呼んでいたでしょう」
勘九郎は、言った。まだ、自分の中で動揺は燻っていた。
――――あのとき、一体、彼の身に何があったのか?父親はどうして、彼だけを闇夜の森に連れて行ったのだろう?
そのことが今回のことに影響している。そんな直感が勘九郎を貫いていた。
「い、いつからなんですか」
「さあな、付き合う前のことは知らない。少なくとも、付き合いはじめたときは知っていた」
沙耶はいとも簡単に言葉を並べ立てる。まるで、納税証明書に自分の名前や住所を記すように。
「っていうことは、別のパターンがあるということですか?文字通り別人格ということが」
沙耶と斉彬は互いの顔を見合った。
「斉彬くんは・・・・」
勘九郎が言いかけたとき、沙耶の言葉が、重なって響いた。
「斉彬はある女の子の人格を隠し持って居るんだ・・・・それがベッドの上で起こったことがあるんだから笑えないよ。同性愛をやっている気分だったね、あれは」
異性の前であけすけないことを言う沙耶。何故か、いやらしいところがないのが不思議だった。その顔はかすかに苦笑していた。それが美しく見えるのだから、三人はこの女性の不思議さんについて再確認させられた。しかし、いまはそんなことにかまっていられない。目の前で寝ている斉彬について考えるべきだ。彼は『名無しバンド』のヴォーカルである。バンドの中心人物なのだ。その斉彬がライブ中にでもこの発作に見舞われたら、どうなるだろう。このとき、沙耶と勘九郎が持っていた不安を原田と美樹本のふたりも共有したのである。
「じっさいにどういうことがあったんですか」
美樹本が興味を押し隠して質問した。
「なに、行為の最中に、暴れだしたんだ。すっとんきょうな声を出してね。私を見て、猛獣でも見るような目つきをしていたよ。こっちのほうが驚いているのにね。しかし、一瞬で、彼が彼女であることがわかったのさ。胸を隠すしぐさを抜きにしても」
長い指を櫛の代わりにして、髪をすく沙耶。その姿は20歳ながら、女王の風格をかもし出していた。
「彼が彼女って?」
目を丸くする原田と美樹本。
「あいつの目は女の子のそれだった。しかし、体は男なんだ。じっさい、焦ったね。私はこれでも女としては大柄なほうだが、力で男にかなうわけはない。あるていど格闘技を身につけているとはいえね。大人の男相手にかなうわけはない・・・、か弱い乙女の目の前で、その斉彬がところかまわず暴れだしている」
勘九郎は、沙耶の自己評価を信じる気にはならなかったが、それをおくびにもださなかった。そんなことを言い出せるような空気ではなかったからだ。
「だけど、斉彬・・・彼女は、私に怖れをなして、部屋の隅に逃げ込んだんだ。なぜかな、私がそんなに怖いはずはないんだが・・・・」
「そして、しくしく泣き出したわけだが、私は心理療法のテクニックを駆使して、彼女の境遇を聞き出した・・・。」
沙耶が言うには、彼女(斉彬)は、自分が17歳の女子高生だと言った。何故か、名前は聞き出せなかった。
「しかし、最後の言葉が気になるな」
「なんて言ったんです」
「「わたしはすぐここから出て行くから・・・それは追求しないで・・・・」だ」
沙耶は、長く延びた爪どうしをくきくきと音を立てながら言った。