『不可視の太陽 第二部 scene006』
ここは、喫茶店「ドヴォルザーク三番街」である。斉彬たちの大学の学生のたまり場となっている店だ。前面がガラス張りになっているために、採光はいうことない。森に似せた街路樹を貫く目抜き通り。そこを渡る着飾った男女たち。それらが見渡せる席に、勘九郎と沙耶は並んで座っている。
「たしかにそう言ったんだな」
「はい・・しかし、僕には斉彬くんが異常だとは思えないんです」
「酒を飲んだあのときは・・・・・たしか記憶が退行した・・・だが・・・しかし、誰も指示したものはいない。それが不思議なんだ」
「ということは・・・・どうだって言うんですか」
珍しく、勘九郎が詰問口調になった。沙耶は、それを面白く見ている。
「別に、即異常だというわけではないさ・・・・しばらく観察してみよう」
「でも」
「でも?・・・きみは何か心当たりがあるんじゃないか」
思わず目をそらす勘九郎。そこに、沙耶は何かを感じ取った。すくなくとも、そんなそぶりをみせた。
「・・・・・沙耶さん」
「うん?」
「突然ですけど、伺ってもいいですか」
「なんだ?単位のことか?」
「違いますよ!沙耶さんは、斉彬くんと付き合っているんですか」
単刀直入に言いたいことをぶつけた。
「つきあう?」
沙耶は、まったく表情を変えない。
「ああ。きみがそう言うなら、そうかもしれないな。」
全く、何の感慨も見せずに沙耶は言う。
「・・・はじめて、君たちが、そうかはじめてではなかったな、あのカラオケでのことだ・・あの時、君らは何か親しげな、そう家族のように見えた。10年ぶりに出会った親族のように」
「あのときって、お酒を飲んでたじゃないですか」
「どうかなっていたが、理性の何処かは目覚めているんでね」
勘九郎は、内心(恐ろしげな人だな)と思いながらも何とか、沙耶の心を忖度しようとした。しかし、その心は鋼鉄の壁に守られて、その向こうは窺い知れない。あの時は、沙耶は酒に呑まれて、人格が完全に変容していたはずだ。それなのに・・・。彼女は理性が残っていたという、ならば、あれは演技のひとつなのか・・・・?つくづく目の前の女性を不思議な人だと思った。
「話しを元に戻そうか・・・・・・たしか、あいつと出会ったのはただの一回だけだったな」
「はい」
勘九郎は、斉彬をあいつよばわりする沙耶を上目遣いで見た。
沙耶は、勘九郎を見つめ続けていた。それは、彼の心の奥底まで見通してしまいそうな目つきだった。まさに魔女のそれのようだった。勘九郎は恐ろしくなって、目を思わず背けた。
「まあ、いいや、いずれ明らかになることだし・・・、それよりも斉彬のことを考えようか・・・・」
「バンドのはなしですか」
勘九郎は、沙耶の機先を制して言った。
沙耶は、青磁のカップの中で、溶ける角砂糖を眺めている。
「でも、どうして斉彬くんにとってそれが重要なのかわからないのです」
「あいつの自宅を行ったことがあるか」
「自宅って実家のことですか」
「そうだ」
それは、大学からそう遠くない場所にあるが、勘九郎は行ったことがなかった。しかし、話しには聞いていた。
「斉彬くんの伯母さんの話ですか」
「聞いているのか」
「そのひとの影響を受けて、Silent Voiceのファンになったっていうことですよね」
「私は、刺激されたよね、心理学的な興味においてだよ」
「改めて聞きますが、学問的な興味だけで彼に近づいていらっしゃるんですか・・・それだったら・・」
「違うね、それには完全にノーといえる」
沙耶はおかわりの紅茶を注いだ。
「とにかく、いま言えるのはこのことを外部に知られないようにすることだ」
「じゃあ、あの夜にいたひとたちには口止めしないと」
寮での飲み会。一晩前に起こったことを思った。
「それは違うな、心理学的な臭いをさせないほうがいい。単なる酒酔いでの出来事だと記憶させたほうが得策だろう」
「話しを元に戻しましょうよ、バンドのはなしです。沙耶さんも参加されるんですか」
「そのように思っているが?」
「でも、どうしてそういうはなしになったんですか」
「あいつの部屋を人目みて思ったね」
「何をです」
勘九郎は、嫉妬心を隠さずに聞いた。その少年らしさをたぶんに残した顔を、沙耶は可愛いと思ったかもしれない。
「あいつの部屋を見たよ。完全に伯母さんにとりつかれている。亡霊にね・・・。いつか誰かが解放してやらねばならない」
いつの間にか、沙耶は話しを元に戻していた。
「じゃあ、なんで、バンドを追求させるんですか、逆効果じゃないですか」
「よくわからないが、完全に読んでみなければ、その小説の意味はわからないということさ」
「伯母さんの存在そのものが、小説だって言うんですか」
「私見によれば、あいつにとってもっと必要なのは父性かもしれない」
「父性・・?」
勘九郎は、ふと自分の父親である榊原英介を思った。彼は、いま、勘九郎の影響しえない場所にいる。にもかかわらず、その影響ははかりしれないものがある。わずか7歳にすぎなかった息子を、凶悪犯罪に同居させた。その過去は、勘九郎の精神的成長に影響を与え、いまだにその魔手を退かせない。それゆえに、彼にとって父性とは不吉なものになってしまう。
「彼から父親についての話しは聞いたことはありませんね」
「じゃ、母親については?」
「たまに下宿に料理などを持ってきてくれるんですよ、斉彬くんに似て、とても奇麗な人でしたよ」
「彼じしんの言葉によれば」
「あまり聞いたことないです」
沙耶は、遠い目をした。勘九郎には、それは精神科医の目に見えた。