『不可視の太陽 第二部 scene005』
―――暗く、そして、とても狭い空間。外からは、風に揺れる木立の声が、ぐおんぐおんと聞こえる。運転席を見ると、仰ぎ見るような巨大な影がそこにある。とても大きな人だ。斉彬は、その人物がたしかん、何かを言ったような気がした。それは女性の名前だったような気がするが、いまとなっては定かではない。そして、その巨大な影が、斉彬に覆い被さってきた・・・。
「ああう・・・・」
----―――夢だったのか・・・・また、見てしまった。
斉彬は、全身からはとばしる汗に、不快さを感じて、飛び起きた。
「・・・・・・」
「勘九郎?起きてはいまいな」
斉彬は、同じ部屋で寝ている友人を見た。それは危惧の目だった。
彼にとって、夢の内容を勘九郎に知られることは・・・・いや、誰にも知られることは耐えられないことだった。
あえて、たとえるならばそれは、女性がその裸身を他人に見られることに等しい。
「ふう・・・」
斉彬は、友人をおこさないように、細心の注意を払って隣室に行った。キッチンの横には浴室がある。そこで汗をとりあえず流そうと考えた。
「信じられないな・・・・しかし、ここまで奇麗に片づけられると、気持ち悪いな」
斉彬は、水回りを眺めながら言った。
実は、勘九郎は、数日前から斉彬のところでやっかいになっているのである。正確に言うと、斉彬が、勘九郎を半ばムリヤリに引き込んだのである。彼は、おせじにも家事が得意とは言えない。しかし、勘九郎は、その手のプロだった。料理から掃除まで、そこらにいる主婦など足下にも及ばない技術を持っている。おそらく、無精な父親と二人暮らしが長かったせいだろう。
「あの父親とふたりぐらしが長かったせいさ」
勘九郎は、そう毒づいたものだ。
しかし、いまの斉彬には、そんなことを思い浮かべる余裕はない。ただ、汗を、自分のカラダにこびりついたおぞましいモノを流したいだけだ。
一方、勘九郎は目を覚ましていた。むくっと、起きあがると斉彬の跡を追った。音を立てないように、細心の注意を払って・・・。彼はどうしても斉彬の秘密が知りたいのである。いったい、あの夜に何があったのだろう
それだけが彼を突き動かしていた。
じゃー・・・。薄闇に、シャワーの音が重なって音楽を作る。斉彬は陶器を思わせる白いカラダに冷たい水を浴びせる。それは、あたかも、彼じしんの心は天井近くにあって、シャワーを浴びている自分自身を眺めているようである。
勘九郎のいるところからは、斉彬の白皙の肌は見ることはできない。浴室のガラスというものは、曇りガラスになっているからだ。しかし、それは美しい絵だった。まるでスーラーの点描を思わせた。
「・・・・・」
勘九郎は、自分が理解しがたい罪悪感を感じていることに気づいた。それは女性が入っている浴室の前に立っているときに感じる・・・あれである。
男なら誰でも感じたことのある感覚であろう。女性の裸体が、一枚ガラスのむこうにひょっこりと存在する。別に覗いているわけでもないのに、だた、立っているだけで覗きをしているような気がしてしまう。
「向こうにいるのは、斉彬くんだ。女の子じゃない」
そう自分に言い聞かせても、胸の動悸を押さえることは出来ない。
「キタナイ・・キタナイ・・オゾマシイ」
斉彬は、全身に冷水を浴びせながら、意識が薄れるのを感じた。それは誰かに自我を奪われるような感覚だった。その何か(誰か?)は、斉彬を浸食し、影響し続けてきた何かである。
そして・・・ついに・・。
「え?ここは?わたし・・・裸?・・・ここは、何処?・・・冷たい」
「え?」
勘九郎は、浴室の向こうから聞こえてきた女の声に、驚いた。そして、シャワーが止まった。そして、ドアの開く音。
思わず、叫んだ。
「斉彬くん、どうしたの!?」
「きゃあ・・・・・!!」
「斉彬くん・・・」
目の前にいるのは、たしかに有田斉彬そのひとのはずだった。いや、たしかにそうだ!!
全身ずぶぬれの男が目の前にいる。いや、男というには華奢すぎる・・がたしかに男であることには違いない。
「あなた、誰、わたしをここまで連れてきたの?」
「・・・!?」
勘九郎は、斉彬の言葉が理解できなかった。斉彬は、側にあった布やら洗濯物やらで、胸を隠している。それは、まるで女性の仕草だった。
「答えなさいよ!?あなた、女子高生を誘拐してどうするつもり?」
「・・・・・!?_」
「この変態!!わたしの服は何処にあるの!?それとも全裸で誘拐したの!?」
「誘拐って!?斉彬くん?」
「何よ、わたしはそんな名前じゃない!」
このとき、斉彬は、天井から自分を眺めていた。斉彬は、自我の座から落とされたのである。外から、おのれのカラダが勝手に動くのを見るとはどんな気持だろう?しかし、いま、彼はそれを味わっていた。
「・・・・・・!!」
「斉彬くん!!」
勘九郎は、目の前で友人が意識を失うのを目撃した。
――――――――――――――。
数秒の間隙があったが、勘九郎は、それが何時間にも思えた。
そして、立ち上がると、おそるおそる斉彬に近づいていった。顔をさわってみたが、覚醒する気配はない。こくりこくりと眠り続けるだけだ。勘九郎は、いま、彼の目の前で起こったことを即座には、理解できない。
一体、何が起こったんだ?
『多重人格』という言葉が頭をよぎったが、彼にとっては非現実的すぎた。
勘九郎は、斉彬を抱きかかえた。
「斉彬くんがここまで軽いなんて・・・・」
思った以上に、斉彬は痩せていた。勘九郎が栄養を管理する前は、いったいどんな食事をしていたのだろう。
しかし、飲み会での食べぶりを思い出してみたが、どうしても斉彬が小食とは思えなかった。どうして、あんなに食べるのに、子狐のように細いのが、勘九郎だけでなしに、みんなが訝っていたからだ。
「おいっしょ・・・」
斉彬は月明かりに照らされた斉彬の横顔を眺めた。
「美しい」それが素直な感想だった。斉彬が同性であることなぞ、この際関係なかった。それは陶器が青磁期のように輝いている。その透明な光は、何故か女性を思わせた。しかし、それは性的な感覚を惹起するものではない。
「君はどうして、僕を惹き付けるんだ?」
それはあの夜に、一回だけ出会った。それだけで、忘れられない記憶を勘九郎に刻み込んだのである。
「・・・・・・・・」
勘九郎は、ふと思い浮かべてみた。彼はギターを奏している。その横では、斉彬が数万の観衆に向かって歌声を発している。勘九郎は、そんな斉彬にうっとりしながら、ギターで答え続ける。しかし、斉彬を見つめ続けるのは、勘九郎だけではない。吾川沙耶が背後で、キーボードを奏しているのだ。ふたつのメロディ・・・。
勘九郎のギターと張り合っているように思えた。
「だれを巡ってさ・・・?」
自問自問した。
そのときである、勘九郎の空想に、もうひとりの映像が現れたのである。長髪長身の男性。それはSilent Voiceのヴォーカルである香だった。彼はステージの横にすらりと立っている。腕を組んでいるその姿は、まるで古代の軍神を思わせた。
「想像は想像にすぎないか・・・・」
勘九郎は、立ち上がると自分の寝具へと戻った。しかし、眠ろうとしてもなかなか寝付けなかった。---―――――――あれはいったい、なんだったのだろうか。最初に思いついたように二重人格だろうか。いや、あれはそんな風じゃなかった。
別に、勘九郎が本物の多重人格者に出会ったことがあるわけではない。
ただ、素人目で見ても、あの時の斉彬から、いっさい異常なものは感じられなかった。
いきなり、自分は女子高生だと告白する男子大学生。何も知らない人は、なんというだろう。彼にわかることはふたつある。斉彬が得体のしれない苦しみを背負っていること。そして、それがあの夜のことに起因する・・・・・のではないか・・・ということだ。
「沙耶さんに頼んでみよう・・・」
このとき、勘九郎が導き出せる答えは、これだけだった。
「・・・・」
勘九郎は、窓の外を見た。月はあくまでも冷たく青かった。