『不可視の太陽 第二部 scene002』
世の中、大学生といえば、宴である。そもそも、大学というところは勉強をするところではない。この大学というところに行くために、多くの人たちがどれほど時間を無駄にしてきたことか、実にくだらない勉強にうつつを抜かしてきたことか。
いまや彼らは酒を呑み、脂っこい食に舌鼓を打ち、浮かれ騒ぐ。それは、もうすぐ人生が終わってしまうからだ。人間、社会などに出たら、単なる歯車、記号となってしまう。それは機械と同じだ。もはや、人間ではない。いや、生き物ですらない。
人間で居られる期間はあと数年だ。どうせなら、楽しく暮らそうではないか・・・・。
「ほれ!もっと声を出せ!」
「外すことを怖がるな!!」
マイクを握った学生が、声を張り上げる。彼に対して、まるでファンのように声をかける学生達。
ここ、都内にあるカラオケボックスでは、その宴が行われている。いまは、四月、世に言う新歓コンパなる宴が行われているのだ。先輩たちは、目の前にいる子羊のような新入生におのれたちの病を感染させようと、待ちかまえている。
まだ、彼等は大学生というものにまじめな夢を見ている。受験が終わって間もないことがその理由だ。まだ、受験生の香りを辺りにばらまいている。彼等にとって、受験生の香りとは、言い換えれば勉学の臭いということになる。
先輩たちは、獣色の目をちらちらさせている。彼等は、自分たちがいい加減なのに、他人がまじめなのが許せない。ちなみに、彼等の大学は、いやしくも一流大学と言われる学校である。
「うちの大学に入るためなら、いままで、親の言うなりになってさんざんやってきたんだ。もう、勉強でもあるまい、ほら、飲め、今日は奢りだぞ!!」
「ハイ!佐藤先輩」
「先輩?なんだ?その言い方、お前、高校のとき体育会系だったろう?」
「はい・・・ギター部でした」
「え?ギター部が体育会系か?」
すでに出来上がった会頭ただしが、べらんめい口調を発揮する。そして、後輩に酒臭い息を披露する。
「ええ、ボクたち芙蓉館高校では、そうだったです、先輩とかものすごく厳しくて・・」
「でもだから、あんなに歌がうまいんだ、勘九郎くんは・・ほら、飲んで!」
すこし大人びいたふうの吾川沙耶が、干されたコップにワインを注ぐ。
「そんなことないです!ボクの声なんて・・あんなに低い声は嫌いなんです」
「そうかなあ、男らしくていいと思うけど・・それだけでなくて気品もあるしね」
沙耶は、さきほど聴かされた勘九郎の歌唱を思い出して言った。
華奢な外見と打って変わった低音の響きが印象的だった。その声を一言で表現するならば、『騎士』ということになる。
「いえ・・・・そんなことありませんよ」
「でも、斉彬くんには負けるかな・・彼は、あたしたちの中じゃ最高だもんね」
「オレたちじゃねええ、あいつならほんまもんの、プロのヴォーカリストになれるぜ」
その名前を聞いたとき、榊原勘九郎は、カラダの中に戦慄にちかいものを感じた。
「その斉彬チャンは今日は来ねえのかい」
「いや、途中から来るってさ、バイトじゃない」
「あの・・・」
「なんだ?」
「斉彬先輩の上の名前は何て言うんですか」
「有田だけど、何?知り合いなの?」
「!!・・ええ、ちょっと・・・」
勘九郎が、胸のうちの動揺をごまかしたとき、扉が開いた。
「ええ?もうはじまっちゃてるの!?」
そこには、軽いフィーリングに全身を固めた青年が立っていた。表情はにやけている。しかし、その声はどこか張りがあった。
「今年の入学生は、どんな感じですか?金城せんぱい」
辺りを睥睨しながら、斉彬は歩みを進める。この会場、すべての目が斉彬に集まる。
「まったく、スターのお登場だな」
「ええ、スターのお登場ですよ、この間の抜けた歌の後は、オレの出番ですよ」
「ひどいな。これは、新歓コンパなんだぜ・・・主人公はおまえじゃなくて新入生だろうが」
歌唱を見せている新入生は、恐縮して歌どころではなくなってしまった。
「ようこそ、我がコンパ部へ・・・」
「おい、有田!これでも、オレらにはちゃんとした部の名前があるんだけどな」
「カラオケ部ですか?酒飲み部ですか・・・!?」
ここで、はじめて斉彬は、異変に気づいた。たしかに、一年の面々は、彼にとって知らない顔だろう?しかし、ここではそういうことではない。
「やっぱりおたくら、知りあいだったのか、やっぱり世界は狭いってか?」
狭い室内を異様な空気が覆った。すでに次の曲が始まっているにもかかわらず、歌い手は、歌うことを忘れてしまっている。それほど、ふたりの出会いは、周囲に衝撃を与えたのだ。
ふたりは、ただ、お互いを見つめたまま凝固している。
しかし、そんな凝固はすぐに終わりを告げた。
「えーと、名前、なんていったけ?」
「榊原勘九郎です・・・・・」
ふたりの間の抜けた会話のせいだ。
「変な連中だな、知り合いにも関わらず、互いに名前を知らないのか」
佐藤紀之が言った。紀之は、斉彬と同学年である。
「こいつは結婚したそうですから、上の名前がわからなかったんです」
「へえ、見かけによらないな、もう結婚しているのか」
「それにしても、勘九郎くん、婿養子ってわけ?」
吾川沙耶が大きな声を出した。
「ち、違いますよ!結婚なんてしてませんよ!!」
勘九郎はむきになった。
「あら、あら、可愛い!顔が赤くなった、勘九郎くん」
「沙耶さん、冗談ですよ、それにしても飲み過ぎじゃないですか、ほんとうに、沙耶さんはアルコールが入ると性格が180度変わっちゃうだから」
「ほんとうにそうだよな、これからオレの彼女にしてやってもいいんだが・・・・ぐ!!」
「何言っているのよ、佐藤くんこそ、飲み過ぎじゃない?」
沙耶は、ひじ鉄を佐藤の腹部にくわえた。おもわず、患部を押さえながら咳き込む佐藤。
「あははは、やっぱり飲み過ぎじゃない!」
沙耶は笑った。周囲もドッとなる。
「ねえ、斉彬くん、歌ってよ、Silent Voice!!」
「・・・!!」
その単語を聞いた瞬間、勘九郎は凍り付いた。幼少のころから、骨髄に到るまで染み渡っていることばだったのである。
「わたしが、キーボードひくからさ・・・・」
沙耶が両手を構えた。
「沙耶さん、ほんとうに出来あがっちゃってるわね・・ここライブハウスじゃないのに」
友人である知が介抱しようとする。それを遮って、沙耶は見えない楽器を演奏しようとする。
沙耶は、どうやら、そのように思っているらしい。両手を虚空の鍵盤に合わせて、ひくひくさせている。しかし、勘九郎にはその長い、芸術家のそれのような指にぐっときた。
「じゃ、『冷たい弾丸』を入れてくれよ」
斉彬が、入力用の機械を持っている一年生に言った。
斉彬がマイクを握ると、部屋の中はシーンとなった。みんなカリスマ的な教主を目の前にした信者のような顔をした。しかし、一年生はその状況が理解できない。その場に対応できずに、生唾を呑みこむだけだった。
一瞬の間があって、あまりに凶暴なドラムとシンセの音が室内に充満した。
「cold bullet!」
斉彬の声が腫れ上がる。それは何処か、女性的なそして、何処か少年的な声だった。前者において、Silent Voiceのヴォーカル、香と違うところかもしれない。
Bullet bullet bullet!
Cold bullet…….
彼女は そのとき、衝撃や痛みよりも冷たさを感じた
冷たい 冷たい 冷たい
苦痛、恥辱、恐怖よりも はるかに冷たさを感じた
冷たい 冷たい 冷たい
はじめて出会った相手 それも、おのれを陵辱している相手に・・・
怒りはみじんも感じなかった
ただ 感じたのは その冷たさ
----―――――彼女は、カラダ全体で、男を絞り上げた それは ―――
男が受けたことのない 愛
あるいは 愛を愛であると 受け取れない
あたしは あんたを知らない
名前も知らなければ 年齢も知らない
どんな父母から生まれてどんな友達と育ったかも 知らない
ただ 知っているのは あんたの冷たさだけ
そして その冷たさが あんたに由来しないことだけ
俗に言う「手の冷たいひとはこころが温かい」って
そんなこと 本気で信じていたわけじゃないけど
一年生や先輩たちはおろか、金城や、佐藤までもが惚けたように耳を傾けている。この場が、あきらかに斉彬のためだけに存在する。
--―――すべてが終わって、彼がマイクを置いても、この空間は静まりかえったようになっていた。しかし、しばらくして打て変わって騒ぎ出した。口笛を吹くヤツ、大声でさわぎだすヤツ。いろいろだ。みんな、それぞれに酒が入っているために、それも大げさになる。中には、泣き出すヤツもいた。泣き上戸だったのだろう。
「こいつの後に唄えるやついないよな」
佐藤が言った。しかし、その声は、勘九郎の耳に届いていなかった。この狭い空間に充満している喧噪にも、聴覚神経が反応していないようだ。
「おい?」
「あ、はい、ごめんなさい」
佐藤に、肩を軽く叩かれてやっと自分を取り戻すことができた。
「しかし、勘九郎は変わっていないな」
気が付くと、佐藤の横に斉彬が立っている。
「お前ら、どんなつながりなわけ?もしかして、小学校時代の同級生とか」
「当たらず、外れずっていうところですか・・・・小学校2年のときに、一晩だけ一緒に過ごしたんです」
「・・・・!!」
勘九郎は、内面の動揺をひたすらに隠そうとした。
「林間学校で一緒だったんですよ」
「しかし、一晩?」
「こいつ、熱を出して、親に来て貰ったんですよ・・・だから一晩」
斉彬は、意味ありげに一晩という単語を使った。
「でも、それだけで互いに憶えているわけ」
「そうですね、それだけ衝撃的だったんですね・・・な勘九郎」
「ええ、そうです。あれはものすごい山の中のことでした」
勘九郎は遠い目をした。そして、頭の中で反芻した。いったい、あの時、父親と何があったのか?
「勘九郎、ここで待っていろ、絶対に動くなよ」
記憶の彼方から、父親の声が響いてくる。あれから、小一時間ほど、勘九郎は車の中で待たされた。
そして、ふたりは帰ってきた。そのときの、斉彬の顔。それは人間の顔ではなかった。いっさいの感情を失った肉のマネキンに見えた。もちろん、当時の彼に、それほどの表現能力があったはずはない。
19歳になったいま、当時を振り返って見れば、そのように言えるということだけだ。
--―――マネキンは、そのフォルムが美しいだけ、余計に冷たく見えた。
「ねえ、聞いているの!?」
気が付くと、沙耶の顔が迫っていた。
「ああ、どうしたんです?せんぱい」
「まったく!聞いていない!!!」
「おい。沙耶、毒牙にかけるなよな、講師さん」
「なによ、関係ないでしょう!?」
勘九郎をはじめとする一年生は驚いた。自分たちと同じ学生だと思っていた沙耶が講師だと言うのである。このサークルに入った一年生は7人だが、沙耶の授業を受けたものはだれもいない。何処の学部なのだろう?
いや、それよりもその若さだ。いったい幾つになるのだろう。どう見ても二十歳前後にしか見えない。
「何を言うか、学内で問題になるだろ!?教員が、学生に手を出したら」
佐藤が不満そうに言う。沙耶はそれを無視して、勘九郎に話しかける。
「アタシたち大人だもんねえ、勘九郎くん!?あ・・えあ・・・ねむ」
「ああ、沙耶ちゃん寝ちゃう」
沙耶は、友人の胸を枕代わりにして寝息をたて出した。
勘九郎は、不思議な思いに囚われていた。それはあの時にみたマネキンと、沙耶の顔が重なったからである。ふたりの共通点はその顔の美しさにある。しかし、目の前にあるのは、酒で火照った女の顔だった。温度もあるし、肉感もある。
いま、斉彬の歌唱は、三曲目に到っていた。すでに、カラオケボックスは彼のコンサート所になりつつあった。