『不可視の太陽 第二部 scene011

 

    それは夜のことだった。深い山中、ふたつの足音が低く木霊する。

一方の足音よりも、もう一つの足音は明らかに大きい。

「ねえ、おじさん、何処に行くのさ」

「もう少しだ」

月に照らし出されて、二人の会話が微妙な光を放つ。しかし、外部からはようとしてその意味は推し量れない。

「何で、勘九郎くんを置いてくるの」

「ちょっと、二人だけで話し合いたくなってな」

 恰幅のいい男を、やせっぽっちの少年が、後に着いていく。

有田斉彬は、このとき幼児にすぎなかった。一方、彼が見上げるほどに大きい男は、榊原英介。壮年の堂々たる男である。ちなみに、二人は全くの他人である。

 やがて、英介の足が止まった。木々の中で、すこしばかりできた空き地である。これは山の神の気まぐれなのか、この山じたいが年をとったせいで、できた禿げなのか。

「どうしたのここに用があるの」

少年は男を見上げた。恰幅がいいという表現がこれほどふさわしい男は珍しい。圧倒的な圧力があった。沈黙があって1分ほど、少年は訝しげに感じて、場所を離れようとした。少年の華奢な背中が、英介に見えたとき、彼の欲望は臨界点を超えた。既に、本来の目的を超えてしまったのである。歪んだ欲望。それは、幼児に大きな力から付けられた刻印によるものなのか、能力的には圧倒的に他を圧倒する彼の人生に、あきらかな影をさし続けてきた。そして、いま、ここにそれは、完全に彼の理性を失わせてしまった。少しでも他人と違うことを圧倒的に差別するこの社会にあって、意識的になのか、無意識的になのか、社会は彼を疎外し、魂ごと彼を傷つけてきた。いま、社会は彼にその罪を償うべきときなのだ。しかし、それが、このいたいけな少年ひとりが背負わなければならないのか ――――――その答えは、英介をはじめ、社会の誰も出すことはできない。

 このとき、明らかに斉彬は動揺していた。少年は、知性と肉体との均衡を著しく欠いている。

 少年は、習慣から、理性だけでことを理解しようとした。しかし、目の前の巨体は、彼にそんな猶予を与えたりはしない。

 「ひい!!」

 迫ってくる体臭。それは、腐ったチーズと納豆を組み合わせたようなにおいがした。あきらかに何処かで嗅いだことのあるにおいだ。

「このまま生かしておくと本当に思ったのか」

残酷な言葉が上から降ってくる。同時に、英介の手が、少年の細首に絡みついた。

 少年の首は、英介の手を持ってすれば片手で?めてしまう。

「うぐぐ・・・・」

段々、筋肉組織に力がみなぎってくる。それは、大蛇によって全身を絡めとられる子牛にも似ていた。やがて、全身のホネを折られ、やがては飲み込まれてしまう。

 しかし、このとき、英介は明らかに別のことを考えていた。いや、感じていた。それは、完全に違和感を伴うものだった。

―――――――どうして、わずか9歳の少年にこんな感情が・・・!?英介は自分で不思議でたまらなかった。彼は官能を感じていたのである。少年の白い鎖骨のくぼみの辺りに貯まった汗が、彼をしてそうさせたのかもしれない。そして、同時に、この少年にデジャヴーを感じていた。それは、少年の外見ではなく、少年全体から漂ってくるものだった。もしかしたら、それが性的な刺激となって、英介の目の前に現れたのかもしれない。

 それは、英介がかつて出会ったことのある女だった。女といってもまだ17歳にすぎなかったから、少女だったといえるだろう。

 その少女と何処かが似ていた。何処が何処かというよりは、全体的な雰囲気が・・・・である。少女は、英介が行きずりに性的な関係を持った相手である。しかし、それはあくまで、彼自身の独善的な見解にすぎない。

 

 

 「うぐぐぐ・・!!」

英介が気がつくと、少年は地面に落ちて激しく咳き込んでいた。激しく上下する小さな背中が痛々しかった。しかし、そう感じている時間は少なかった、英介は、シャツの隙間から見える、少年の白い背中を見つけると、自分の性欲を抑えられなくなってしまった。

「ひ・・!?」

少年は、自分の体にのしかかってくる力をまったく理解できなかった。少年の年齢にはまったくそぐわない知性を持っていながら、それを理解することはできなかったのである。しかし、無意識のレベルでは完全にそれを理解していた。

 通常の少年少女たちでさえ、この手の虐待を受けたときに、それを理解していないにもかかわらず、心に癒しがたい傷を受けてしまうのである。

 

 哀れな子牛は、大蛇に全身の骨を折られようとしていた。

 

 

「オレはどうしてこんなことをしているのだろう」

小さい躰をまさぐりながら、英介は自問自問した。当初の目的は、斉彬を殺すことだった。それを勘九郎に見せないために、こんな山奥まで連れてきたはずだった。五月だというのに、空からは白いものがちらついてきた。それは青い雪だった。それは、かすかな香がした。花びらが散っていたのである。草花などに何の興味もなかった英介には、何の花の香なのかわからなかった。

 

 これは、おおよそ10年ほど前に起こったことである。この事実は、表に裏に、斉彬の成長に影響をあたえ続けてきた。そして、勘九郎の心に、ひそやかなる影をさしていた。彼が、その事実を知るのは、もう少しのことである。

 あの事件から10年経って、ふたりは大学生になった。ロックバンドを作って、それが軌道に乗りかけたころである。やっと命名もされることになった。ちなみに、それは横文字である。題して、“Anonymous

 意味は、作者不詳ということである。クラシックの中でも、ルネサンス時代など旧い曲の場合、作者が書かれる欄に、このような文字が並ぶことが多い。くわえるならば、この単語には、匿名という意味があることから、ほとんど『名無し』というバンド名と変わらないと言ってもいいかもしれない。

 

 

 

 いま、そのバンドの主要メンバーである三人が、斉彬の部屋でテレビを囲んでいる。

「アメリカって異常だよな、こんな変質者は全員、死刑にしちゃえばいいんだよ」

「あれ?斉彬くんは死刑に反対じゃなかったけ」

「いや、こいつらだけは例外だよ、人間じゃないって、こんなことをできるのは」

それは、テレビをいつものように三人で囲んでいた時のことである。斉彬は、あたかも身内か自分の身に起こったかのように言っていた。白い顔はさらに青ざめ、手はかすかに震えている。

 テレビの中で、展開していたのは、アメリカで実際に起きた事件だった。10年ほど前に起こったその事件は、ある男が、自宅に何人もの少年を連れ込んだあげく、性的虐待を与えて、殺して埋めたという陰惨なものだった。

 シャベルカーが、男の自宅を捜索する映像を見て、斉彬はさらに青くなっていた。

勘九郎には、思い当たることがあった。斉彬は、少年に対して、恐怖に似た不快感を示していたことがあった。それは少年そのものがおぞましいというよりは、少年を見ることで、何かを想起してしまうといったニュアンスだった。

 少なくとも、勘九郎はそう受け止めていた。

「もしも、秋が弟だったら殺していたかもしれない」

かつて、斉彬はそう言ったことがある。秋とは、年の離れた妹のことである。いま、幼稚園に通っている。彼は、この妹をとてもかわいがっている。それを母親の芳子は、喜んでいた。常々、わが息子ながら、どこか機械を思わせる冷たさを感じていたので、秋に対する優しげな態度を見ると、それは朗報とでもいうべき出来事に思えたものである。

 

「どうした?」

沙耶は、小さな弟にそうするように、かがんで下から斉彬の頬を撫でた。さすがに第三者である勘九郎がいるためか、かすかに羞恥心を思い出した。

「大丈夫だよ」

一瞬、斉彬の顔が幼く見えた。ちょうど、はじめて出会った頃のように思えたのである。勘九郎は、息を呑んだ。

「・・・・・」

斉彬は小さな窓から、外をうかがう。細い指を唇に宛いながら・・。あたかも囚人が自由を求めて、鉄格子の外を眺めるように。

その仕草がなぜか幼児を思わせた。

 「僕は・・・・」

小さな口が動く。この口から、あの声がはとばしるとはとうてい想像できない。多少、高い方に偏ってはいるが、高低に自由自在に発揮される声は、かつてのカストラートを彷彿とさせた。

 「おじさん・・・」

斉彬はことばを続ける。そして、夢遊病者のように足をもたつかせながら、歩きだす。

「やめて・・・」

ドアの所まで行ったところで、ふいに倒れた。

「斉彬くん」

思わず近寄るふたり。また、あの発作が起こったのか。 今度はいったい、何が出てくるのか、ふたりは身構えた。

「・・・・」

「何が見えるの」

沈黙が我慢できなくなったのか。沙耶が語りかける。

「暗い、とても暗い・・・」

「そこはどこ?」

「山の中・・・・おじさんと」

勘九郎はピンときた。それが、斉彬の実のおじではなくて、彼であることをである。彼とはもちろん、勘九郎の実父である榊原英介である。

「おじさんって誰?」

「榊原さん」

やはり・・・。勘九郎は察知していながらも、身悶えた。なかなか、事実を正視できる状態ではなかったのである。しかも、まだその事実を知らされていない。

「僕を殺そうとする・・いや、違う、何か違うこと・・・これは・・はあ、はあ・・いや」

斉彬のか細い声が響く。その声の調子には、すでにあの堂々とした斉彬は見る影もない。

「何か違うこと?」 

はじめて、勘九郎が質問した。その声はかすかに震えている。

「・・・とても性的なこと・・・この人が、そういう性癖を持っているとは思わなかった・・・ペドファイル・・・・」

「・・・!?

 断っておくが、このとき催眠状態に入っている斉彬は9歳である。当然、当時の知性と知識のはずである。しかし、彼が通常の9歳であると思われては困る。当時にして、普通のオトナをはるかにしのぐ知性が持ち合わせていた。それがこのとき、はじめて発揮されたということである。

もしかしたら、斉彬少年は、こうすることによって自分自身を防御したのかもしれない。

「・・・・」

 勘九郎は絶句していた。たしかに、長いこと疑問であったことは氷解した。たった数語であったが、斉彬の言葉は、当時、いったい何があったのかを如実に描写していた。

あの空白の時間に・・・。

 しかし、その事実はあまりにも残酷だった。勘九郎は、しかし、信じられなかった。平気で人を殺した彼であるが、そういうことをするとはとうてい信じたくなかったのである。

---――――9歳の子供にそんなことをするなんて・・・。ほんとうのことなのか!?

勘九郎は、そのような劣情が存在することすら信じられなかった。

 --―――斉彬は、トランス状態から醒めると同時に、沙耶の中で、寝入ってしまっていた。その様子はまるで母親と息子のようだった。

 

 

 

 

 

 


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