『記念の緑scene017』
--――――――――さんさんと輝く満月に、浮かんだ聖堂。それは夜目には、かなり大きなたてものであると見えた。
ゴシック式の装飾の細部までは、わからなかった。しかし、御幸がこれまで、イタリアやドイツの諸都市で見てきたものと、大差ないように思えた。
---―――――たてものは、天に向かってそびえ立っていた。
そのたてものからは、この世のものとは思えない美声が流れてくる。いや、ひとの声というよりは、むしろ、大地のさえずりに似ていた。いづれにしても、非人間的な力が備わってるとしか思えない・・・・そんな雰囲気を醸し出していた。
「こんなところに、こんな聖堂があるとは・・・・・たしか地図では寺があるはずだが・・・」
「見間違えでもしたんじゃないですか」
「そうかもしれない、それにしても、これは見事な・・・長崎や米国にある似非ヨーロッパとは違う・・」
「本物を見たことがあるんですか」
「・・・・私は専門家じゃないが、たいした代物だ・・・じっさい、本物の中で、PVを撮ったこともあるし、じっさいに録音させてもらったこともある」
「どんな感じでした」
「フィレンツェのサンタマリア=デルフィオーレでは、息を呑んだ、まるで母親の胎内に戻った気がした。いや、それとも違うか・・・・・何か、懐かしい感じがした。自分はあそこ、あるいはあそこと似たような場所に、確かにいたことがある・・・・と言う確証がどこからか生まれてくるんだ・・・・かつて、全く別の体を持って、あそこにいた気がする・・・・」
「それはなんですかね?それにしても、美しい曲ですね・・クラシックは不勉強なもので」
「馬鹿、音楽を演る者がそんなことも知らないのか・・・グレゴリオ聖歌だ」
たてものの周囲だけ、まるで朝が来たかのように明るい。それは、とても幻想的な雰囲気だった。
「グレゴリオ聖歌って言うんですか?楽器は無いんですね」
「あたりまえだ。本来のキリスト教の典礼音楽では、まったくと言って、伴奏はない。モーツアルトやベートーベンのミサなぞは外道なのだ・・・あれは西洋音楽の典型で、バッハやビートルズでさえ、その薫陶を受けている」
-----――――――――その唄声は、他を暴力的に圧倒することはないが、それに平服せざるをえない何者かを備えていた。
「何か、すごいものを感じますけど、このCDを聞きながら朝食って言うわけにはいきませんね」
「お経か?三千円返せ!と思ったものだ。当時はまだ高校生だったが、それからちゃんと聞けるようになるまでに10年かかった」
「僕なんて、初聞きですよ・・・それで結構キレイに聞けるなんて、才能あるかもしれませんね」
「私よりか」
「いえ、そんなつもりじゃ」
「いや、有る分野においては、私以上にあると思うな・・・例えば、あの聖堂においても、それぞれの柱がそれぞれの役割を果たしている。そして、それぞれが、支える役割が違っても、あの聖堂自体を支えるという意味においては同じだ」
「御幸さん」
レイは、御幸が何を言っているのかわからなかった。いや、わからないふりをした。ことばというものに、ことさら鋭敏な少年が、それを読み取ることができないはずはなかった。
「御幸さん、何を言っておられるのか、よくわかりません」
「そうか?わからないか」
御幸は、まるで長大な謎と見つめ合う探偵のようなカオをした。それは、むしろ謎解きを楽しんでいるようだった。
---――――――しばらくすると、教会から、歌声はいっさい聞こえなくなった。月は、すでに傾き始めだした。
「御幸さん」
「なんだ」
「突然で、なんですけど、物を表現するってどういうことなんですか」
「私にも、まだわからん。ただ、じぶんがどんな作品を好きかと聞かれれば、答えることはできる」
「それは」
「私たちが演っている音楽や絵、彫刻、文学、あるいはスポーツのような対象にまで、敷延してもいい。みんなそれらは表現方法にすぎない、本当に大事なのは、それらの根源にあるものなのだ」
「意識の志向性のようなものですか」
「そう、それがなくては、何の意味もない。現在、世の中に流れている作品と呼ばれているものの多くは、本質を失っている。たしかに細部は緻密だ。その意味での完成度は高いし、それに固執するあまり、内容がない」
「アイドル製造工場ですか」
「アイドルに限らないな、例えば、付き人たちが忘れていった漫画雑誌をめくってもそうだ。みんな、型にはまった絵、型にはまったキャラクター、そして、話の展開までが、ステロタイプなんだ。――――そもそもキャラクターという概念が、有島武郎や夏目漱石にあったのかな?単に言葉だけが一人歩きしているように思えるが」
「ないでしょうね、いまの自称クリエイターたちは、自分たちが作り出したキャラに、固執するあまりに、対極を見誤りがちです。たとえば、Aというキャラを作ると、Bという性格は幾つとかパラメーターで表しているようです。みんなゲーム脳なんですよ。そもそもキャラの性格なんて、物語の中で、勝ってに動くものでしょう?作者の自由になんてなるはずがないです。それこそ傲慢ってものです。そもそも、人間じたいが脳で考えるわけでしょう?でも、脳じたい、人間が創ったものじゃないんです。自由にならない根拠です」
「人間そのものが自然ってことかい?まるで作家みたいだな」
「・・・・!!」
御幸のことばは、確信をついたものだったが、じっさいに意図したものではなかった。
「―――話しを元に戻しましょうよ・・・あのグレゴリア聖歌ですが、あれの中核に座るものはいったい何なんでしょう」
「それは、たぶん、神をたたえることだろう、私はクリスティアンではないが・・・そもそも、音楽というものは、神をたたえることから始まったことは事実だろう」
森の繁りが、呻いた、まるで、黒い緑が意志を持っているかのように見えた。
「神ってなんですか?宗教の違いって何で起こるんでしょう?民族で祈る神が違ったりするんでしょうか」
「私は、違うとは思わないさ・・・それぞれの宗教の中核に位置するものが、形而上さ・・それをどのように諸民族が解釈したか――――――それがキリスト教とイスラム教、あるいは仏教との違いさ」
「形而上って言って、言葉で表しているのは矛盾ですね」
「穿ったことを言う。その通りだ。だが、それを音楽で表すなら矛盾ではない。べつにそれが神である必要はないが、時流に乗る文化どもに根本的に欠けているのがそれなんだ」
-----――――――――気が付くと、闇夜は朝日に溶けようとしていた。同時に、恐るべきことを発見した。
教会と思っていたたてものは、山々や崖などの影に過ぎなかった。
「あの歌声はなんだったんだろう」
レイは独白した。
---――――そこには御幸が、かつて言ったように寺があるだけだった。