『記念の緑 scene16』
金剛山。おそらく、関西の人間なら子供のときから、その山の名前に親しんでいるだろう。標高1125メートルは関西最高峰を誇る。
その山を、林道から少し外れて、奥道へと入り込む男女がいた。奥道への玄関には『立ち入り禁止』の文字があったが、完全に無視して、侵入した。
「・・はぁ、はぁ・・・」
「大丈夫か?少年、私よりも10歳も若い癖に、それに君は男だろう」
「御幸さんの口から、そんなことばがでてくるとは意外です・・はぁ・・はぁ」
「何がだ?」
「はぁ・・ごく、はぁ、常識的ということ・・はぁ・・ですよ・・・あまりしゃべらせないでください・・・」
「情けないな・・・私など汗ひとつかいていない」
「・・・・・・・」
ついに、少年は無口になった。
アイドルグループ、Crystalsのヴォーカルであるレイこと北周一郎と、ロックバンドFarther landの元ギターリストである石田御幸だった。ふたりは、人の目を忍んで、この深い山奥へとやって来たのである。
因みに、Crystalsは、レイが病気療養中のために、活動停止となっている。かつて、レイはじぶんの報道に触れる機会があった。
『Crystals、ヴォーカル、レイ、アイドル史上最高の美少年、失踪』
『実は、胃癌?都内の病院に入院中、あと余命三ヶ月?』
『ホテトル嬢にエイズを感染された!?』
はっきり言って、苦笑するしかない。有名人の報道というものが、いかに事実に立脚していないかが、わかった。もっとも、下手に事実に忠実たらんとして、常にまとわりつかれたらたまったものではない。
―――――――――――、たしかにほとんどストーカーとしか思えない輩もいるにはいる。しかし、家にまで侵入したり、盗聴器などを設置したりはしない。もししていれば、真実が伝わっているからだ。
「はぁ・・はぁ・・・み、御幸さん・・・ここらで一休みしましょう」
「だらしがないな・・・私も少しは疲れたか・・・・」
ペットボトルを口に含みながら、御幸は、樹木の合間に、かすかに見える下界を眺める。
「はぁ・・はぁ」
「よく、それでライブを乗り切ることができたな、全国だろう?」
「・・・・・!?」
音楽関係の名前を聞いて、レイは真顔になった。急に現実に引き戻されたのである。
「僕をどうして、こんなところまで連れてきたんです」
「君の伯父さんが、そう言うからさ、山にでも連れて行ってくれって」
「伯父さんが?」
Alfredを介して、御幸は犬島正興と親交を暖めていた。正興も御幸の人柄を認め、その人間が、レイにとって有益であると認めるに至った。そのために今回の登山も許可したのだ。
「それで、ちゃんと道を知っているのでしょうね」
「ああ、中学生のとき沙織と来たからな、あのときは祖父が一緒だった。祖父は登山家だった」
「中学生のころの沙織さんで、どんな人だったんですか」
「―――いまの沙織を見て貰えば、あのとおりだ」
御幸は、すこし考えてからことばを紡ぐ。何か、糸が絡んでしまった気がして、喉に何か引っかかった声を出した。
「・・・・・・・・・」
「・・・ここって死者とか出るんですか」
「幽霊のことか」
「違いますよ、わかってて言っているでしょう?この山で死んだ人がいたか聞いているんですよ」
「残念ながら、金剛山は遭難するような山ではない・・・とネットで書かれていた」
「―――――残念ながら・・・ってどういうことです」
「きっときみは遭難とかその手のことを期待しているんじゃないか・・・生と死とか・」
「―――――――――そ、それならば御幸さんと来たりしませんよ」
「私が助けると思うのか・・我が身大切で・・もしもの時は簡単に見捨てるぞ」
「・・・・」
「安心したというカオをしているな」
「・・・僕はほとんど死人といっしょですから」
「本音がでたな」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
しばらく無言の登山が続いたが、やがて、広場が開けてきた。山頂社務所と掲示板があることから、ここが、山頂であることがわかる。
「あっけないですね」
「そうだな」
―――全国にある何処の学校にでもありそうな、丸時計と意味不明のモニュメント。おそらくは、彫刻家と称する似非芸術家の自己満足であろう。
それを見たとたん、御幸は苦笑を押さえきれずにいた。
金剛生駒特定公園―――――金剛山頂1125米―――――――御所市観光協会といかめしい文字で書かれている。文字のいかめしさに比べて、この施設のチャチさはどうだろう。自然を人間の型にはめようという、この種の偏狭さには、不快さを通り越して滑稽としか言いようがない。御幸はそう思った。
「―――――――――ここからどうする?」
御幸は思い出したように問うてみた。答えはすぐやってきた。
「この柵を越えましょう」
「?」
御幸は無言で。応じた、この少年の行動を観察してみたくなったのである。その勢はごく冷静で科学的でさえあったはずである。しかし、基本的な理性に欠けていたと見るべきであろう。
御幸は、まるでおもちゃの柵のように、おあつらえ向きに設置してある柵を乗り越えると、茂みに消えた。御幸も後に続く。
「下に行けば街に着くでしょう?さっき見えたじゃないですか?」
レイは、先ほど見た山頂からの光景を思い浮かべた。たしか、小さな工場の触覚ぐらい見えたかもしれない。
「じき、日も暮れる。山の中の行動は何が起こるかわからんぞ、しかも、こんな道無き道を行くんだからな」
御幸は、美貌を歪めた。ひょっとして現れた冷気に肌が驚いたのだ。
――――道無き道。まさに、山中はその通りだった。――――――――――下に行けばいい――――――――――。たしかにどの通りだろう。しかし、そのほかの方向は皆目わからない。ただ、鬱蒼としたジャングルが続くだけだ。
「いったい、どうしたんだ?死の誘惑にとらわれたのか」
「まるで、オペラか舞台の台詞ですね」
「人間の人生などと言うのは、舞台にすぎない、私らは、俳優さ」
「舞台が人生の暗喩にすぎないということですか」
「それ以外の解釈法があったら、知りたいな」
―――、元来、この女はこの種の話しに目がない。男顔負けの議論を展開する。もともと、女という生き物は、彼女の知性の如何に関わらず、議論ができないものだ。
しかし、御幸は、まるで両性具有のように、その種の精神機能を持っていた。
「議論が出来る女性なんて、御幸さんがはじめてですよ」
「そうか?」
「知性には関係なく、女性は議論できないものですから」
そのことばに、御幸は沙織を思い浮かべた。あれほどの知性。しかし、それは議論むきではなかった。―――――――100パーセントおのれが正しい ―――――――――その考えを乗り越えることができない限り議論は成立しない。
そのような遊びにも似た余裕が、女性には根本的に欠如しているのだ。男性に子宮が存在しないように ―――――――――。
――――――――、これまでの会話が何処まで議論を意味するのか、不明だが、ふたりは、ほんの鞘当てだけで、お互いを見切ったのである。
「出来る」と・・・。
そのとたんに、御幸は性欲に似た情欲に、溺れ、レイは、それに呑みこまれまいとした。もちろん、呑みこまれてしまう選択肢もあるには、あったが、その時期ではないと判断した。
しかし、この時点でふたりに必要なのは、そのようなことではなかった。感情的な理解こそふたりには必要なことだったのである。
「先ほどの話しですけど―――――――――どうして、死のことが頭をよぎったんですか」
「きみがそれを求めているかのように見えたからだ。根拠は、いまきみがやっている行動そのものだ」
「それに付き合っている御幸さんはどうです?まるで荒馬を操ろうとする騎手じゃないですか」
「ほお・・・・単なるガキじゃないわけだ・・・・小さな頃から、徹底してケータイとパソコンに育てられたきみたちに必要なのは、いっさいの文明から一時的でも隔離されることしかないとおもった」
「それこそ、いま、隔離されているじゃないですか」
御幸は、レイの言語能力に驚いた。その潜在能力を認めてはいたものの、何処かで侮っていたのである。
――――――――――――。
会話をつなげていく行為は、ふたりにとってかなり有意義だった。しかし、思惑的なことと比較して、行動において、事はまったくまっすぐに続いていない。
山はだんだん深くなっていく。
ふたりは、思っていたよりも、山というものが峻厳であることを知った。元々、道無き道を行くのだから、その位、わかっていてよさそうなものだ。
―――しかし、レイの行動はきわめて突発的、かつ、感情的に行われた。
レイは、ごく簡単に考えていたのである。――――――――とにかく、下へ行けばいい。
そうすれば人のいる街にたどり着けるだろう。
それが甘かった。崖や巨木に幾度も出逢い、なかなか、下にはいけない。それどころか、上に迂回したことさえ何回もあった。深い山中にて、どのくらい下に行けたのかわからない。その上、そろそろ日も沈もうとしていた。
すでに腐りかけた緑。
それは、夜の闇によってさらに黒ずんで、その妖気を発散させ始めていた。
山頂からは、簡単に街を視認することができた。それなのに、どうして、簡単に街へと行けないのか。まるで、亜空間に迷い込んだかのような錯覚に陥った。
「―――もしかして、僕たち遭難しました?」
「気楽に行ってくれるな、それにしてもヘンデルとグレーテルだな」
「勇気あるジョークですね」
「その発言がきみじゃなかったら、とうに殴りかかっているところだ」
「―――あるいは女性の子宮かもしれない」
「男たちは、よくそういう妄想をする・・・・あるいは回想というべきかもしれないが」
「ロックバンドの歌詞にも、よくありますね・・・子宮とかembryoとか」
「―――胎児か・・・よく聞く」
――――山はようやく、銀色の光に包まれ始めた。それは優しい月の光だった。
――――そのとき、どこからか賛美歌が聞こえた。
「こんな時刻に賛美歌か、黒ミサか」
「こんなところに教会なんてありましたっけ」
―――――――ようやく山の麓を感じることができたとき、ふたりは、闇夜に照らし出された白亜のたてものを発見した。