『記念の緑 SCENE012』
『記念の緑scene012』
空気は、澄んだ青色だった。しかし、その青は空のそれではなく、人工着色剤のそれだった。
ここは、都心に居並ぶビルのロビー。その所有者はデカルタ放送である。民放ナンバーワンともツーとも言われる巨大マスコミである。
会場は、空調から、人工の空まで、何もかもが不自然に統一されていた。150mの吹き抜けは、前代未聞のアトリウムを形成し、その企業の業績を誇っていた。
天頂あたりには、人工の星を象徴するシャンデリアが輝き、来る人を見守っている。あるいは、それは社長が世界を見下だす目なのかもしれない。
ここのオーナーはすでに98歳を迎えて、なお現役である。去年、21歳の花嫁をもらったばかりである。老人となって、なおも壮健なこの男は、戦時中においては、中国人あいてに怪しげな実験を行ない、戦後においては、その成果を米国に売り渡すかわりに、莫大な資産を得た。
そんな血塗られた資産と人脈は、戦後60年を超えたいまも地下に薄き気味悪く輝いている。
さて、いま、ここはたったひとりの女性のために用意されていた。彼女のための舞台と行っても良い。
この記者会見に招待されたマスコミが、待ちに待った瞬間がやってきた。
「私、father landのヴォーカル、Skeltonは、バンドを脱退することを表明します」
一流と言われるヴォーカリストだけあって、よく通る声だ。それは朗々と広大な会場に響き渡った。まさに、一人芝居の始まりである。ここは舞台で、彼女ひとりのための演劇がついに幕が開いたのだ。
無数のフラッシュが、たかれる。
マスコミとその向こうに陣取る、消費者たちはその姿に釘付けになった。それもそのはず、きょうび、唯一のロックバンドと言われるfather landのヴォーカルが脱退するというのである。
七枚目のアルバムである『魔笛』が好調な売れ行きを示し、音楽的にも未踏を極めたと言われたときである。
世間的に言えば、たががロックバンドである。そのメンバーにすぎない一私人にたいして、こんな扱いをすることは常識的に言ってありえない。しかし、彼女は、音楽界だけでなく、様々な世界に影響を与える人物となっていたのである。
海外での評価も鰻登ぼりで高騰し、アジアはおろか、欧米においても歓喜を以て受け入れられはじめたのだ。それは、日本のバンドでは不可能であると結論づけられていたはなしだった。
「今後の活動は、安藤沙織としてソロで行ないます。また、それは必ずしも音楽活動に限られるというわけではありません」
紗織は、無表情だった。最高級のセイジな肌の下に、まったく血液は感じられなかった。それは人間としての魅力が感じられないというのではない。それは畏ろしいほどに満ち溢れていた。また、生気がないというのでもない。それも、無尽蔵の泉のように讃えられている。
しかし、流れている血は、赤ではなく青や紫のような印象を与える。
そんな沙織に質問が投げかけられる。
「 安藤さん、政界へと転身されるということですか?お父様が外務大臣であると伺いましたが、地盤をお継ぎになるということでは?」
「あなたは、・・私に猿回しの猿になれと言われますか?」
「はあ・・?」
「私にも、すくなくとも自尊心のかけらぐらいはあるとご理解ください・・・・。マスコミと政治家・・・。私も女ですから、子供を生むということもありえましょう。そのときには、じぶんの乳を飲む我が子を見つめながら思うことでしょう。政治家とジャーナリストにはなって欲しくないと・・・。では、次の質問を」
「どうして、絶頂を迎えたといわれるバンドを脱退なさるのですか」
「―――――――――――絶頂を迎えたからこそです。嘗て『Japan as no.1』という本があったでしょう?同じ作者が近年、どのような本を出版しました?少なくとも、少しでも教養があると自負なされる方なら、題くらいご存知でしょう。嘗てのスペインしかり、大英帝国しかり、絶頂を迎えた者は、行き着く先は決まっています。最後のアルバムはまさにレパントの海戦にちがいないと思い当たりました」
1571年のレパントの海戦は、スペインを主力とするキリスト連合が、トルコ海軍を打ち破った事件である。それはまさに太陽の没さない帝国を象徴する出来事となる。しかしながら、それからまもない1588年に、スペインは英国に破れ、歴史の表舞台から消え去って行く。
沙織はその故事に準えて、じぶんの立場を表明している。その言葉は、観衆に「もう児沈みはじめた船にはもう、乗っていられない」といった印象を与えた。
しかしながら、能面のような顏に、沙織は、一瞬だけ苦悩を滲ませた。それは、この長い台詞のさいしょの、ごくいっしゅんだけのことである。
すこしだけ、言葉を詰まらせた。
――――――――――、それを見抜いたのは、bloodだけである。
「沙織、あのばかやろう・・・」 しかし、そのことばは、沙織を非難する意味ではなく思いやる気持ちから生まれてきた。
―――――――――― だが、しかし。
このとき、彼女は、マスコミの向こうに陣取る消費者のひとりに過ぎなかった。
「何が良い格好するだと!?」
――――――――――。すぐに、立ち上がったBLOODだったが、その勢いで会場まで行くわけにはいかなかった。ここで、動けばマスコミたちの格好のエジキだ。
BLOODは、親友を凝視した。彼女は、ただ無機物の向こうで、冷たく燃えていた。これは、沙織の一人芝居なのだ。
BLOODはもう何もできないじぶんの無力を実感するしかなかった。
「さい、最後のライブは演られないのですか?」
150センチぐらいしかない女性レポーター。その女性の声は震えていた。おそらくはファンなのだろう。
しかし、それに答える沙織の答えは、あくまで冷酷だった。
――――――――、あくまで表面上――――――――だが・・・。
「それはバンドとファンに、失礼でしょう?私はもうやる気がないのですよ?みなさん少ないこずかいやバイト代から、6000円を捻りだすのでしょう?私はそれほど悪魔ではありませんよ、father landは解散したのではなく・・・・・・・」
「言うな!あなたにその名前を言う資格はない!!」
あたりは騒然となった。その小柄なレポーターは、素手で襲いかかったのだ。壇上にあがると、沙織に殴りかかった。
みな、そのようなことが起こることなど想像できなかったのだ。あくまで常識外のことだった。だから、誰も冷静に対処することができなかった。
会場は、まるで荒海のようにビュービューとなった。このような高級な空間にそぐわない恥態だった。ここは昔で言えば、貴族しか入ることを許されない、いわゆる、殿上なのだ。
しかし、警備員らは、乏しい職業心を叩き起こした女性を押さえ込み、即座に引きずりだした。
沙織は、その過程様子をまったく無表情に見ていた。
――――――――――、しかしそれはあくまで表面上だった。
かすかに震えていた。仮面はすぐにも崩れようとしていた。
それを見抜いていたのは、bloodだけだった。
「失礼しました。みなさん、バンドはまだ健在です。あくまで私が脱退しただけですから・・・・。」
それだけ言うと、OLさながらに深い御辞儀を披露すると、下がって行った。あくまで、平然と・・・。
しかし、その瞬間、顏を押さえたのは誰にも見えなかった。
――――――――――。
主役が退場すると、会場はおかしな空気が支配した。しかし、それはあくまで無言で行なわれた。さながら、嵐の前の静けさに似ていた。
沙織は、じぶんに用意された部屋に入ると、付き人に退席するように言った。彼女はバンドの付き人である。
「誰も入れないで・・・メンバーもよ」
それだけ言うと広い部屋にひとり閉じこもった。
「これは現実なんだろうか・・・・」
沙織は流れる涙を押さえられなかった。顏が見る見るうちに赤くなっていく。まるでジュウナンをしたあとのように、血液のめぐりがよくなっていくように・・。
沙織は、あつらえのテーブルに両手をついた。涙が床に零れた。左手で、顏を押さえる。ピアニストのように長い指だ。
沙織の目の前に再現されている映像がある。それは先ほどの女性の顏だった。彼女はファンに違いないと思った。記憶にはないが、ライブにおいて、最前列でじぶんの名前やbloodの名前を呼んでいたに違いない。
ファンは彼女にとって親とも同レベルで語れる存在だった。表には出さないが、バンドの中で誰よりもそう思っていたのは彼女だった。
「ご、ごめんなさい」
いまは、もう記憶の中だけで動いているファン。彼女に謝ると、沙織は床に泣き崩れた。
―――――――――。まだ仮面は出来上がっていなかった。たとえ、沙織であろうとも、いちどはがした顏が再生するのに時間がかかるようだ。
しかし、沙織は、ドアをノックする音が聞こえるとしゃんと立ち上がった。目の前の大きな鏡に、じぶんを見つける。
「もう、これで私は完全に仮面を脱いだ。やっと、安藤沙織に戻ることができた」
沙織は独語した。