『記念の緑 SCENE008』
レイが、最上義之の部屋に入ると、テーブルにある物が目に入った。
それは分厚い雑誌だった。義之は、ソファに座って、頭を抱えている。
『小説文芸』この世界では有名な雑誌で、大正期以来、100年の歴史を誇っている。
今月の表紙を飾ったのは、『記念の緑』だ。
レイの書いた小説『記念の緑』は予想以上の、反響を文学界に与えた。
新人作家、安藤満介は、石橋丹算の再来とさえ言われた。丹算はちょうど三十年前にデビューし、芥川賞を取った作家である。
その後、多くの名作と言われる作品を世に問うた。
満介と同じ編集者であるところから、兄弟作家と言えるかもしれない。
しかし、ーーー連のことをまんじりともせずに、見つめていた人物がふたりいる。
本当の作者であるレイと、最上義之だった。
「やがて、騒動も収まるよな」
「収まってくれなきゃ困る。」
ふたりは、互いをまるで犯罪者のように、見回した。
「ま、これで、お前はじぶんの本当の能力がわかったろう?今度こそ本業に精を出すんだな」
「・・・・・・」
「まだ、わからないのか?正統な評価が欲しかったんじゃないのか?
レイ、おまえはスターなんだ、音楽界のな・・いまは違うかもしれないが、いづれ、本当の意味でおたまじゃくしを握る刻がくる」
「お前のほうが、作家に似合っているんじゃねえの。たまにわけのわからない比喩を使う」
「いいか?今は足場を固めるんだ。CRYSTALSもいまは、お前の言うように養老院かもしれない。
しかし、奴らの加護がなければ、やっていけないのも事実だ。いまは奴らを利用するんだ。
やがて、自分たちの音楽を作ればいい。お前とAlfred、ふたりがいれば・・」
「何を言う!あんな奴とこれ以上やっていけるか!!」
レイの表情が変わった。
最近、リードギターのAlfredとことあるたびにぶつかる。殴り合いになりかけたことなど、数えられない。
その度に、間に入っているのは義之だった。
レイに負けずプライドの高いAlfredは、二人の老人や会社に、特別扱されているのが気に入らないのだ。
しかし、義之にとってみれば、このふたりに仲たがいして欲しくない理由があった。
なぜならば、CRYSTALSがアイドルを脱皮するためには、この二人の将来性と潜在能力が不可欠だからだ。
「お前たちさえ、協力さえしてくれれば、こんなくだらない仕事を受けなくて済む」
「仕事?」
「そうだ・・・」
義之は冊子をレイに渡した。それは、ヴァラエティ番組の司会の話だった。
CRYSTALSの5人が、馬鹿騒ぎの仕立て役になって、ゲストである芸能人をもてなすというコンテンツである。
「これなら、まだあのメタボリックババアの相手をしているよりマシかもしれんな」
レイはもはや、抵抗する覇気も何も無くしてしまったようだ。
「もう、ピエロに成り切ったほうが楽かもしれない」
「それは、消極的自殺だな」
義之が容赦なく言い放つ。
「じゃあ、積極的にやってやろうか」
「・・・お前は疲れているんだ。しばらく休んで考えろ」
義之は、それだけ言うと部屋を後にした。
義之はキッチンに入ると、コップを取りだし、中に氷とウィスキーを挿入る。
琥珀色の液体が、とくとくと入って行く。
氷どうしがぶつかって、絶妙な声を立てる。
義之はこの音が好きだった。
「沁みる・・・」
喉がえらく沁みる。アルコールが食道に侵入して、胃に到達するのがわかる。
「寝ていないと、アルコールが回るの早いな・・・・」
すぐに立っていられなくなった。椅子に腰掛けると、さらに液体を口に入れる。
もう、座っていることもできない。まるで睡眠薬だ。
義之は、すぐに夢の世界のひとになってしまった。
――――――――――――――――。
―――――――――歓声――――――――――――――。
義之は、宇都宮清原球場のマウンドにいた。栃木県大会の優勝決定戦。
義之はそこまで、記憶を遡った。しかし、それを意識的に行なったわけではない。
義之には、ここが夢であるという自覚はない。
義之は17歳。校3年生だった。甲子園の砂を踏みしめる最後のチャンスだった。
「甲子園への切符をぜったいに手に入れてみせる」
試合前に、そう、レイに言った。
考えて見れば、野球を始めたきっかけはレイだった。
中学時代のある日のこと。とあるプロ野球チームが好きだったふたりは、球場に足を運んだ。
観戦中に、レイは言ったのだ。
「義之、野球をやってみないか」
「なんだって、運痴のオレがか?」
義之は、運動にたいして、徹底したコンプレクスを持っていた。
彼があんなにひどいいじめを受けた原因のひとつにそれがあったからだ。
義之は、しかし、レイの言うことがあながち嘘ではないと思った。
(彼がいうなら・・・・)
レイの言うことはまるで予言者のそれのように、説得力があった。神秘性に富んでいた。
彼に出会って以来、いじめは影を潜めた。
べつにそのことだけが原因ではないがー、レイの言うことなら、義之は信じてみる気になった。
こうして、中学2年の2学期にして、はじめて野球を始めることになったのである。
このような義之が、野球部の門を叩いたとして、うまくいくはずがない。
彼が想像する以上の苦しみが待っていた。それをなんとか努力で克服した。
努力が報われるのは、校に入ってからである。
彼は知らなかったが、合格した学校は、甲子園に優勝の経験もある名門校だった。
それゆえに、入部には試験もある。彼はしかし、無知故に、リラックスして受けることができた。
そのおかげか合格することができた。なんと、受験者99人の内、合格者はわずか26名だった。
義之は、合格してからそれに驚いた。
そして、自分の努力が報われたことを知った。
それから野球漬けの日々が始まった。別の校に入ったレイは影ながらに応援してくれた。それはもの凄い励みになった。
そして、いま、彼は夢の中で、試合中だった
9回裏、1ー0。2ストライク、3ボール、2アウト。 そして、満塁。
栃木大会とはいえ、最終戦なれば、かなりのひとたちが県中からやってくる。
たくさんのひとたちの歓声。
――――――――――――――――。
しかし、彼の耳には、それは入っていなかった。
あと1球にすべてをかける。そうすれば、長年の夢が叶う。甲子園。
いや、義之だけではない。監督、選手たち、彼らは、義之とちがって、子供のころからそれを夢に見て来たのだ。
それらすべて、この腕にかかっている。
義之など正味三年にすぎない。しかし、それは軽い三年ではなかった。
いままでの弱いじぶんが生まれ変わるための三年。
それは本当に辛い三年だった。
その努力の結果、名門校のエースにはなれなかったが、二番手にはなることができた。
義之は振り被った。
「え・・・ここは」
「おい、義之、おまえ、ひとりで楽しんでいたのか?」
意地悪そうなレイの顏が目の前にあった。
「そんな顔するな、レイ・・・お前も飲むか」
「昼間から、酒か?貰おう・・・」
レイはグラスを受け取ると、氷とウィスキーを入れた。わずかな量の水を足す。
ピンク色のマドラーでかき混ぜると虹色に輝いた。
それはー見華やかだかが、虚しい・・・・彼の人生に似ていた。それをレイじしんが自覚していた。
それがこれまでの行動を規定していた。
レイは、それをイッキに飲み干した。
「おい、気をつけろよ、けっして強くないんだからな・・・・概して、強くないヤツほど無理する・・・」
「ふん」
レイは、グラスに氷を新しくすると、酒を付け足した。
「ほら」
「あ・・入れすぎ・・・!!」
レイが抗議する前に、水が足されている。その前に、グラスを鷲づかみすると、それを口に付ける。
「まったく・・」
義之があきれたとき、胸に振動を感じた。携帯が反応したのだ。
「もしもし」
「明光出版の石田ですが・・」
「内々の話ですが・・・ああ、そうだ芥川賞って知ってますよね」
「・・・はい」
そのー言は、義之を混乱させた。
「まだ、内々の話なんですけど、その候補に上がっているんですよ。これが口外してほしくないんですが・・・。」
「・・・・」
さすがに、「私をからかっているんですか?」とは言えずにただ、硬直した。
「はい・・・よろしくお願いします」
ただ、機械的に返答したまま、携帯を閉じた。
「どーしたんだ・・出版社だろ?カネ、どんぐらいくれるって。
「金の話じゃない・・・・」
「え?」
レイは義之のただならぬ様子に、驚いた。しかし、次の言葉には真に仰天させられることになる。
「なあ、レイ、芥川賞って知っているか」
「芥川隆之か?古い声優のことだろう」
「何を言っているんだ!!芥川賞だ!!」
思わず、義之は携帯を落としてしまった。
その音はハウリングして、レイの耳に木霊した。
「・・・いづれは、自分の名前、取るつもりだったのに」
「お前、まさか」
「いや、なんでもない!」
「なんでもないじゃないだろう、義之・・・お前・・」
レイは自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに気づいた。
だから、「どうして言ってくれなかったんだ」とは、言えなかった。これ以上、何を言っても彼を傷つけるだけだと思ったのだ。
「よ、義之、オレはどうすればいい、お前の人形になってやる」
「・・・いまは、何も考えたくない・・・とにかく帰ってくれ」
レイは、何も言わずに立ち去った。
ただ、残りのウィスキーを飲み干すことだけは忘れなかった。
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