『不可視の太陽 第三部 scene004』
勘九朗は、無言だった。そして、斉彬も無言だった。
ふたりは、川沿いの道を歩いている。
「暑いな、梅雨は開けたのかな」
「うん」
最初に口を開いたのは、斉彬である。勘九朗は、ただ、オウムのように反応するだけだ。
有馬家を後にして30分ほど経つ。薫子は最寄りの駅まで送っていくと言ったが、ふたりは断った。もちろん、勘九朗の体のことを気遣ってのことだったが。
「なあ、居間に置いてあった写真、見たか」
「いや、写真?そんなのあったけ」
勘九朗は、感情が高ぶっていたから、そんなものは眼中になかったに違いない。しかし、何故か、その単語に興味を惹かれた。
「誰の写真があったと思う」
「・・・わかんないよ」
意味ありげに言う斉彬にどう反応していいのかわからない。
「沙耶だよ、それも子供のころのさ」
「え?沙耶さんの写真?」
勘九朗は真底驚いた。自分が、あの家に運ばれたのは、はたして偶然だったのか・・と訝った。
「それにしても、あの人たちは誰なの?斉彬くんは、既知があったみたいだけど」
「ライブに来ていた人だよ、あの後、会って話をしたんだ」
「あの人と沙耶さんがどんな結びつきがあるの」
「いま、連絡しようにも、携帯が壊れちゃってるしな・・・お前のもだろう」
斉彬は、ストラップごと壊れた携帯をクルクルやる。
「僕のは、流されちゃった」
「財布は無事だったのにか?」
「そうみたい」
勘九郎は、財布の中身を確認しながら言った。服は乾いているが、財布の中身はそうはいかなかったようだ。ぐちゃぐちゃと濡れた紙幣がうねっていた。まるでウミウシのようだ。
薫子が、ふたりの服を干してくれていたのだ。真夏の太陽で、すぐ乾いた。
「まったくいい性格しているな、お前は」
「しっかりしてるって言ってほしいな・・・で、斉彬くんは財布どうしたのさ」
「・・・・・・・・」
「どうしたの」
「みなまで言うなって」
斉彬は怒ってみせた。しかし、内心嬉しかった。本来の勘九郎が戻ってくれたかと思ったからだ。しかし、それを鵜呑みにするほど、彼は単純ではない。それが金メッキのごとく表向きにすぎないことは火を見るより明らかだ。いくら自分が気にしていないことを彼に告げても、それを理解する勘九郎じゃないだろう。もっと、悪いことに斉彬じしん、その傷を忘れてないのだ。自分をだませないことを相手に強いるのは無理というものだ。しかし、勘九郎にその罪がないことはあきらかだった。
-------------―――――――。斉彬は自分の内面についてのことを考えることをやめた。ただ、勘九郎のことだけを見ることにした。
(何とかしないとな)
斉彬は心配そうに親友を見つめたが、自分では気づいていなかった。それは、つい、この前まではさかんに起こっていた発作が起きなくなっていることである。平素の彼は、その時の記憶を憶えていないのだから、当然かもしれない。しかし、たびたび起こる記憶の断絶は、彼をして不安にさせたことは事実だ
しかし、こいつはあの歳からあの事実を引きずり続けていたのか。それで、あの笑顔を作ることができたのか。あの笑顔の裏で、自分を絶え間なく責め続けていたのか。
「ほら、バス停だよ」
「ああ」
斉彬は、街を睥睨する丘に小さなバス停を見つけた。それは錆びていて、何処か懐かしい風情を醸し出していた。
「薫子さんの言っていたとおりだ」
「沙耶さん、心配しているかな」
「といって、連絡する手段があるわけではないし」
また勘九朗は、壊れた携帯をクルクルまわして言った。そのとき、バスがやってきた。行き先は、彼らの町の最寄の駅である。
ふたりは、バスに乗った。ほかに乗客はいなかった。勘九朗が先に入った。一番奥の席にたどり着いて、座ろうとしたとき、何気なく見た車に、よく見知った女性ドライバーが見えた。
「あ、沙耶さん・・・!!」
「何?」
斉彬も、そちらを見た。それは彼も見知った車だった。別段、車に詳しいわけでも興味があるわけでもなかったが、恋人の車くらい憶えているものだ。
「どうする、戻る?」
「いや、もう疲れた、何より帰って寝たい」
たった二言で議論の答えが出た。もっとも、真夏のバス内で行われた対論は、とうてい議論と言える代物ではなかったが。
一方、沙耶は斉彬たちに発見されたとも知れず、車を運転していた。
「え?帰った?どうして引き止めてくれなかったの」
沙耶は、警官に見つかったら点数を引かれるというリスクを背負って、携帯を片手にしていた。
「もう!いいわよ、久しぶりだから行くわ。事情も知りたいし」
斉彬たちは、沙耶のこんな表情を見たことはないだろう。たぶんに少女らしさを残した顔である。彼女でもこんな表情をするのだろうと、もしも見たら目を丸くするに違いない。
それから五分くらいして、車は斉彬たちが今までいた建物の前についた。言うまでもなく、有馬祐介の別荘である。
「ああ、沙耶、行き違いだったな」
「行き違いじゃないわよ」
ドアが開いて、サングラスで長身の男性を迎えた。
「おじさん」
その顔は、まさに少女そのものだった。
「おばさんはどうしたの」
「薫子は買い物に行っている」
「そう」
沙耶は、車を出ると改めて、この隠れ家を見上げた。
「本当に、中に何にもないの」
「ああ、新築以来、何も入れていない」
ふたりの間で、“もの”とはただひとつの概念を指す。
「楽器はおろか、CDデッキすらない。まあ、入れ」
「四分音符のひとつすらないって?よくおじさんにそれが耐えられるわね、沙耶はそう思わないけどね」
沙耶は自分のことを沙耶と行った。よく、世の親がそれを戒めるものだが、それは、沙耶と祐介との間の親しさを暗示するものをも言えた。ふたりは隠れ家の中に消えていった。
さて、斉彬と勘九郎は昼下がりのバスの中にいた。車内は冷房が効いているが、真夏の直射日光は、それでも熱を車内に持ち込んでくる。ふたりはここまで無言だった。
「なあ、勘九郎、お前にどうしても話しておかなければならないことがある」
「もしも、斉彬くんが作家か、脚本家だったら、完全なダメだしをしなきゃいけないところだよ」
勘九郎はいつもよりも、饒舌だった。それが不自然であることは、斉彬には明白なことである。あきらかに自分の感情をごまかすためにそうしているのだろう。
「今日はこれから、うちにこないか」
「・・・・・」
それは、勘九郎にとってはじめてのことだった。沙耶は、自宅に招待されているのに、自分はそうされていない。それは、彼にとって長いこと懸念のことだったのだ。
「わかった。だけど一度戻ろうよ」
「ああ」
バスは、やっと終着駅を仰ぐところだった。