『不可視の太陽 第三部 scene002』
斉彬は、流れる川面を眺めていた。すでに夜の帳が下りている。川面が川面であることを示しているのは、月明かりの反射だけだ。遠くの若い男女のものと思われる声がする。しかし、互いに何か言い合っているが、詳しい内容はわからない。耳の中では、さきほどのライブの後遺症が残っている。大音量のせいで、耳が麻痺してしまっている。
「・・・・」
斉彬は土手を下りていく。河の懐かしいにおいがする。よく、子供のころは魚を釣ったり泳いだりして遊んだものだ。
「・・・うん!?」
斉彬は驚いた。あるイメージが河の上に現われたからだ。それは着物を着た若い女だった。彼女は、洗濯板で着物を洗っている。どうして、こんな古風なイメージが現れたのだろう。
「ばーちゃんが言ってたっけ、若い時は川で洗っていたって」
斉彬はひとりごちた。
いつもなら、こんなことを語りかけるのは、勘九郎ときまっている。恋人である沙耶ではない。
「あいつ、いったいどうしたって言うんだ」
斉彬はさきほどのライブのことを思い出していた。
――――あの演奏。確かに性格だ。あいつの性格と同じように。しかしながら、それはあいつの本質と異なる。
ステージの上だけではなく、勘九郎はどこかおかしい。無気力というのも違う。たしか、心理学用語で、そのようないいかたがあったと思うが、自動機械のような、そんな感じなのだ。ただ、蛙の足が電気に反応するだけに見えた。斉彬は、中学の時に理科の実験で行ったことを思い出していた。蛙の足は本体から切り離せされて、まるで標本のように導線につながれていた。実験者の意思ひとつで、スイッチが入れ換わり、電気が通じる。すると、蛙の足はまるで生きているかのように動き出すのだ。
「今日のライブは最低だった・・・あれで、沙耶のキーボードがあったからなんとかなったんだ」
そう毒づきながらも、勘九郎を目の前にして、そこまでストレートに言えそうになかった。なぜならば、いままで支えてくれてきたのがわかるからだ。彼が理想とするヴォーカル。唯一、ここに例を示すとすれば、Silent Voiceの香。斉彬は、とうてい、彼のヴォーカルと比較できるレベルに達していない。彼のヴォーカルに比べたら幼稚園児の音楽教室に等しいとさえ言えるだろう。それを、痛いほどわかっているのだ。
Anonymousのギターリスト、勘九郎。
彼は、サッカーで言えば、ゴールキーパー。いわば、バンドの良心とでもいうべき存在だった。しかし、この頃それが極まってしまったのか、音楽的な限界なのか、それにテッシテシマッタノカ。勘九郎は、完全に氷ついたように見えるのだ。それが、いったい、何のきっかけがあってそうなったのか見当がつかない。
「それにしても、あの観客たちは・・・・」
斉彬は、客たちにも不満だった。かれら、かのじょらは、いつものようにわめき、完全にノリノリだった。かれら、かのじょらのほとんどが、自分たちを客観的に観てくれない。斉彬の主観からみて、うまくいこうがうまくいくまいが、同じ反応だ。まるで、鶏小屋の鶏だ。小屋の前をエサを持っていくとにぎやかに騒ぎ出す。
「鶏インフルエンザにでもかかったら、別の反応してくれるかもしれんな」
ファンにとってみれば、酷な発言だろうが、厳しいファンこそ、アーティストを育てるものであろう。いま、斉彬たちが置かれている状況は、そのような状況ではないのである。
しかし、斉彬の見るところ約一名違う人物がいた。さきほど、斉彬がことばを求めたあの黒服の男である。
「あの人、音楽の専門家か何かだろうか、しかし、沙耶はその手の人間じゃないって言ったな」
斉彬は黒い水に手を浸した。その冷たさは、蒸し暑さを多少は忘れさせてくれる。
改めて、斉彬はライブの後に出会った男性のことを思い出して見た。
はじめて大人の男性に出会った気がした。斉彬はその印象をなかなか、意識に登らせないようにした。自分が抱いた感情を素直に認めることができずにいた。あまりに自己と相反する気持と思えた。かといって安易に排斥できない。斉彬は、不思議な気持に襲われた。
まるで、女の子が年上の男性に抱く感情のように思えた。それは不自然でありえないことだった。
そのうえ、音楽に関係無いことに悩んでいることに、斉彬は驚いた。
「なんで、オレはこんなことを考えているのだろう」
いつのまにか、思考はとんでもない方向へと飛んでいた。それがあさっての方向へと転換することなど、斉彬は予想だにしなかったろう。しかし、その時は刻々と近づいていた。遠くで、ぽちゃぽちゃと水音がした。向こう岸から人影が、近づいてくるではないか。
「また、イメージか」
斉彬は、それをさきほどのイメージと勘違いした。川岸で洗濯物を洗う例のアレである。ところが、それは女性でなく男性だった。しかも、よく見知った相手である。月明かりがやけにまぶしいために、遠く離れたここからでも判別することが出来た。
「勘九郎!」
斉彬の声が小さかったために、声は届かなかった。そうしているうちにも、勘九郎は、川の中へと進んでいく。この川は、たまに溺死人が出るくらい危険な川だ。学校でも、ひとりで遊びに行かないように、諭されるくらいだ。
「あいつ、まさか」
勘九郎の顔に、まったく感情は感じられない。精気は完全にうしなわれ、まるで魂が抜き取られたかのようだ。
「おい、勘九郎」
思わず、大声を出した。勘九郎はさすがにびくっとなったのか、斉彬の方を向いた。
「な、斉彬くん」
斉彬は、すでに腰まで水につかっている。黒い水がまるでタールのように身体にからみついていくる。水の勢いはかなり強い。
ショックだった。斉彬が自死を望んでいるなんて、寝耳の水だった。処理できない感情は怒りに変わっていく。
「勘九郎、何やっている!?」
水はついに、斉彬の胸あたりまで達していたが、そんなことはいっさい気にならない。実が付くと、彼の右腕は勝手に動いていた。
「何をやっている!!」
「頼む、死なしてくれ」
「やかましい」
勘九郎は、勘九郎の右肩をつかんでいた。
「・・・・!!」
その華奢さに驚いて、川に倒れそうになる。足に力を入れ直すと、勘九郎をこちら側に引き寄せた。そのときである。斉彬は下半身のバランスを崩してしまった。黒い水の中へと没していく。水の流れは強い。昨日までの大雨のために、水量も流れも倍になっている。ふたりは、夜の川を流されていった。
「ああ・・、な、斉彬くん、手を離して・・」
「や、やかましい!」
斉彬は、このときとばかり怒りを右腕に託した。勘九郎の顔を殴りつけたのである。この有様で、目標を定めることすら難しかったが、なんとかやり遂げた。
「な、斉彬くん・・までおぼれちゃう・・・離して、はあ、はあ」
「こいつ、まだ言うか!!おい!生きろ!死ぬな!」
水を飲みながらも、叫び続ける。それは、斉彬の怒りが変化したものだった。それは、勘九郎を親友だと思いながらも、そのじっさいを知らずにいた自分に対する怒りも含まれていた。
月夜で、星々が瞬いているのに、この激流は二律背反していた。怒りの表情を示さずに怒っているおやじのようで怖い。かえって、恐怖が増すのである。
--―――川に流されてから、どのくらいの時間が経ったのだろう。幾度となく丸太や、その他の漂流物にぶつかったかわからない。そのたびに、体じゅうに生傷ができたことは疑いない。斉彬が気がつくと満点の星が瞬いているのが見えた。頭や背中には、ごつごつした石を感じた。ここは何処か?
「勘九郎!!」
斉彬は思わず叫んだ。まるで、奪われた恋人の名前を呼ぶように。
「うう・・うう」
自分の声とほぼ同時にうめき声が聞こえた。それは言うまでもなく、勘九郎のそれだった。勘九郎は斉彬から数メートル先に横たわっていた。
「勘九郎」
安心すると、痛みが起こってきた。それは全身に走る。
「あ、斉彬くん、動かないで!頭」
「え?」
ふいに、頭に触れる、何か温かいモノがそこで蠢いている。まるで生き物のようだ。それを月明かりに照らしてみると血であることがわかった。
「やかましい!おまえにオレの心配をする権利があるとでも思っているのか!?」
斉彬は吐き捨てるように言った。濡れた衣類が、躰にまとわりついて気持ち悪い。そのおぞましさも、彼の怒りに油を注いだ。
「くそ!のれんに腕押しかい、何も言わないのか!?」
斉彬は、勘九郎の肩を痛いほどつかんだ。しかし、得ることができた言葉はつぎのようなものだった。
「何、水浴びしただけだよ」
「ふざけるな!!」
もうすこしで、右ストレートをお見舞いするところだった。
「・・・・・」
「勘九郎!!」
斉彬は、ただ、下を向いて黒い水を眺めるだけの勘九郎にいやけがさしたのか、仰向けに寝転がった。しかし、ふいに収まりきらない怒りが自分の中に復活するのを感じた。おもむろに、立ち上がると、勘九郎に向かっていった、彼の胸ぐらをつかむと再び、川の中へと入っていく。
「そんなに死にたいなら、オレが殺してやろうか!!」
斉彬はそう叫びながら、勘九郎を水中へと没させる。しかし、勘九郎は、抵抗らしい抵抗はしない。ただ、なすがままになるだけだ。斉彬は、理性を取り戻すまで50秒くらい、そのような行為に時間をわすれてしまった。
「か、勘九郎」
我に帰った斉彬は親友を見つめた。
「ぐぐぐ・・・・」
激しく咳き込む勘九郎。斉彬は、おのれが行った行為をむざむざと見せつけられた。それは、彼自身が持っている哲学から、完全に離れた行為だった。あぜんと見つめる。
しかしながら、勘九郎の口から出てきた次ぎの言葉は、斉彬を驚かせるのに十分だった。
「お願い、殺して。斉彬くんに殺されるなら本望!君はそれをする権利があるんだ。僕はそうされるべきだ。僕はそれに対して何も言う権利はない」
勘九朗はそういい切ると、号泣した。斉彬は流れる水の中で、ただ立ち尽くすだけだった。
「お前、一体、それはどういうことなんだ?」
「・・・・・」
親友は、この時両生類のように見えた。全身がぬるぬるした皮膚に覆われていて、いまにも水の生活へと戻ってしまいそうに思えた。
「行くな!勘九朗!」
「・・・・・・・」
ストレートにそのことばは出た。しかし、勘九朗は即座に返す事ができない。
「え?熱い!、お前」
斉彬は、ふいに勘九朗の肩に触れた。そこは、異常に熱かった。
「お前、熱があるじゃないか!?早く病院に!」
自分が病院嫌いの癖に他人には容易く言う斉彬である。
「このまま死ねたらいい」
「黙れ、まだ言うか、早く来い!!」
斉彬は、駄々をこねる勘九朗の二の腕をつかむと、岸へと引きずっていく。川岸につくと、ここが高い丘が見えた。そこには大きな樹木が生い茂っている。なかなか、上がれるところは確認できない。時刻は既に5時近いであろう。早朝の青い空気が、ふたりの肌に突き刺さってくる。