『不可視の太陽 第二部 scene004』
都心から20分ほど普通電車に乗ると、その国立大学はある。大学名を冠した駅名が目印だ。駅から歩いて、15分ほど。目の前に、大きな門が現れる。
高級住宅地と平行して、存在する校風。学生たちは、都心の暑苦しい空気からかなり自由な空気を楽しむことができる。
大学の広い敷地内には、部室が並んでいる区画がある。駐車場と森に挟まれたその場所には、実に12棟もの部室群がひしめいている。部室といっても、高校や中学のそれを想像してはならない。白亜の建物は、見方によっては寮といえるほどの設備が整っているのである。各区割りに、トイレは当然のこと、ダイニングにシャワー室まである。恒例の飲み会はここでやることになっていた。ちなみに、カラオケは二次会である。
その夜は、別に飲み会というほどかしこまった集まりではなかった。最初は、数人が連れ添っただけであった。吾川沙耶、有田斉彬、榊原勘九郎の三名だ。
沙耶たちと集った斉彬だったが、いままでは、それほど酒を好いていなかった。
このサークル、ヨーロッパ芸術文化研究会の中では、それが既成の事実だった。いつも、ビールを一杯空けると、ウーロン茶なりジュースなりのソフトドリンクに逃げ出すのが、常であった。ところが、二年になって突然、酒に目覚め始めたのである。
「どうしたのさ、突然、飲み始めて・・・・。斉彬君も酒の味がわかりはじめたのか」
吾川沙耶は、まだ酔ってはいない。だから人格が変わることもない。しかし、それが続くことも長くはないだろう。
「・・・・・」
斉彬は、ただ、透明な液体を口腔に運ぶだけの作業に勤しんでいる。しかし、数分も経つと、口を開いた。
「たった、三人とはしけていますな、みんな呼びましょうよ・・・・」
「いちいち、呼ばなくてもくると思うけどな。やつら、アルコールの匂いとなると鼻が利くんだ。まるで犬だな・・・ほら」
沙耶が言い終わる前に、ドアが開いた。
「おや、おや、やっていますね、これこそ、大学生の本分ですな」
「沙耶さんは、21歳にしてすでに大学生じゃないだろう」
口やかましく入ってきたのは佐藤と金城である。手にはそれぞれ、酒瓶の入ったフクロを持っている。彼等の背後からは女の子たちの黄色い声が響いてくる。
「おや、斉彬くんも呑んで居るんだ」
佐藤が言う。それは、彼にも以外なことだからだ。床に座り込んだ彼の周りには、数缶の空きビールがところせましと並んでいる。
「佐藤と金城か」
「沙耶さんもいらしゃったんですか、まだ全然呑んでないようですね」
「わかるのか」
多少、赤みをさした顔を見せる沙耶。しかし、アルコールがまだ脳が侵していないようだ。その様子を見れば、沙耶がまだしらふであることがわかる。
沙耶は、佐藤から酒瓶を受け取ると、即座にそれを開けようした。いま、空けたばかりのコップに新しい酒を注ぐ。そして、それを口に運ぶと、喉がくいくいと動かす。まるで、そこに得体の知れない生き物がいるかのように・・・。
「ちょっと、ペースが早いんじゃないですか」
「そろそろ、危ないんじゃないですか、顔色がおかしいですよ」
「そーう?」
佐藤は、しだいに彼女の人格が変わってきていることを見て、そう判断した。その顔をひとめ見ればわかる、美貌は、美貌だが、大学の美人女講師というよりは、美人風俗嬢と表現したほうが適当だろう。かたちのいい卵形の顔は、間延びして、頬は紅をさしたように赤い。それがほんのりといった感じではないのだ。
「おや、斉彬くん。まだ呑むの」
「・・・え?だれ」
「おや、おや、完全にいっちゃってるよ」
「ねえ、斉彬くん、もうやめにしようよ」
「行かなくっちゃ・・・」
斉彬の口調は、何処か普通と違った。それは酒に酔った上でのことのように思えない。
「ねえ、斉彬くん、何処に行きたいの?」
沙耶は、斉彬の肩にしなだれかかって聞いた
「CD店・・・」
「何て言うお店なの」
「アウトオブブレイク」
「それって何処にあるの」
畳み掛けて質問する沙耶。その目は酒に呑まれて人格が変わった彼女ではなかった。斉彬の異常さに、プロとしての神経を刺激したのである。
「ボクの家の近くだよ」
「何のCD?」
「決まってるじゃん、Silent Voice!!三ヶ月も待ったんだよ・・・『アンビバレンツ』」
「それって、たしか、1998年のアルバムだよな・・・」
「し!!」沙耶は、佐藤に舌打ちした。
「いま、何年なの?」
「決まってるじゃん、1998年だよ」
「・・・・・・」
周囲は固唾を呑んで斉彬を見守っている。目の前で起こっている現象を理解できずに固まってしまったのだ。
「ねえ、斉彬くん、Silent Voiceのこの曲知ってる?・・・・・ララ」
沙耶は、Silent Voiceの新曲を歌い出した。歌詞はまだ憶えていないので、メロディだけだ。しかし、さすがにキーボード引きあって、完全に正確だ。
「なにそれ?知らない・・・でも、Silent Voiceらしくはあるね・・・何処かのバンドのマネなのかなあ、それにもレベルが高いな・・・・え・・!?」
「何か、おかしいよ、沙耶さん」
勘九郎はただならぬ斉彬の様子に驚いた。
「わかっている」
斉彬はたしかに動揺している。頭を抱えて丸くなってしまった。
「斉彬くん、とても気分が落ち着いている・・・・」
沙耶の計算された声。それは、斉彬を完全に落ち着かせた。ごろんと慣れきった猫のように、床にぐにゃりとなる。
「・・・これから、1から5まで数えていくわよ。その間に、いままで話したことは完全に忘れて、思い出せない・・そして、5まで達したら、あなたは完全に目が醒める・・」
「5,4,3,・・・2・・・・1」
沙耶が手を打つと、斉彬はとたんに目を覚ました。
きょとんとしたその顔は、何処か愛嬌がある。ふだんの端麗な整った顔からは、とても抽出できない要素であろう。
「どうしたんだ、みんな」
しかし、しばらくして、その口から出てきたのは、いつもの斉彬だった。あまりに不遜できょうびの大学生を絵に描いたような・・・。
「ああ」
佐藤は、あたかもこの瞬間に世界が始まったかのように言った。
「いや、突然、眠り込んでしまったので介護していたのだよ」
金城が、不自然な日本語で答えた。
「そうなんですか」
納得できないようすで、斉彬は頭を振る。覚醒がうまくいかないのか。
勘九郎も、呆然としていた。なぜならば、いま、ここで見させられたものは、たしかに7歳のあの日に見た斉彬だったからだ。ふたりは、互いに見つめ合った。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「おい、おふたりさん、おかしいぜ」
周囲は、ふたりのただならぬ様子に訝しがりはじめた。
「え・・・・?」
「あ・・・・」
「何?何?もっと呑もう・・・・!!」
斉彬は、そんな空気をかき消そうとするかのように、酒の入ったコップを振り上げた。みんな、それに習って、個々、酒を注ぐ。
勘九郎は、しかし、そんな空気に乗り切れずに斉彬を見つめている。彼は打って変わって、もくもくと酒を呑んでいる。
いったい、先ほどまでのことはなんだったんだろう?斉彬の秀麗な顔を見つめる。
「どうした?それほど見つめたら穴が開くぞ」
斉彬は、屈託無く言う。
この人間は、ほんとうに性格が多様だ。猫の目のように変わる。いったい、どれがほんとうの彼なのかわからない。
勘九郎は、しばらく物思いにふけった。窓の外の突きに魅入られたりした。コップを二杯ぐらい空けた後だろうか。部屋の中が、何故かさみしい。すこしがらんどうになったような気がする。辺りを見回してみる。たしかに数人が居なくなっている。沙耶がいないのだ・・・。そして、もうひとり、重要人物がいなくなっていた。
「どうしたんです?沙耶さんは」
隣にいた。佐藤に聞いてみた。
「わからないな・・・さっきまでそこにいたんだけど・・あれ?斉彬は?」
「・・・・」
ふたりとも夜陰に消えたあとだったのだ。